本多康俊
本多 康俊(ほんだ やすとし、1569年(永禄12年) - 1621年3月29日(元和7年2月7日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての徳川氏の家臣。三河国西尾藩主、近江国膳所藩初代藩主。康俊系本多家宗家初代。
徳川四天王の筆頭・酒井忠次の次男。母は松平清康の娘(松平広忠の妹)。酒井家次の弟に当たる。正室は菅沼定盈の娘。子に本多俊次(長男)、本多忠相(次男)、本多俊昌(三男)、本多俊之(四男)、本多景次(五男)、娘(前田利孝正室)。
生母は松平清康の娘なので、徳川家康とは従兄弟の関係に当たる。天正3年(1575年)、織田信長の人質として織田氏のもとへ赴いた後、天正8年(1580年)に本多忠次の養子となった。天正18年(1590年)、家康が関東へ移封されると、下総国に5000石の所領を与えられた。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにも参加し、その戦功により三河西尾に所領(2万石)を与えられた。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では近江膳所城を守備し、翌年の大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いに参加して首級を105個も挙げたという。その戦功により、近江膳所に加増移封(3万石)された。
元和7年(1621年)2月7日、53歳で死去。