新続古今和歌集

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新続古今和歌集』(しんしょくこきんわかしゅう)は、室町時代の勅撰集。二十一代集の最後にあたる。

室町幕府第6代将軍足利義教の執奏により、後花園天皇の勅宣を以って権中納言飛鳥井雅世(初名雅清)が撰進、和歌所開闔として堯孝が編纂に助力した。永享五年(1433)八月二十五日下命、同十年(1438)八月二十三日四季部奏覧、翌十一年六月二十七日成立。真・仮名序は共に一条兼良の筆。撰進のために応製百首(永享百首)が召され、宝治後嵯峨院)・弘安亀山院)・嘉元後宇多院)・文保(同)・貞和尊円法親王)度の百首歌も選考資料となった。

下命時の後花園院は十五歳の若年ながら詩歌管弦の造詣深く、御製も多く伝わる好文の賢主。飛鳥井雅世は新古今選者の一人雅経の六世孫であり、庇護を受けた足利義教の推輓で選者の栄誉に浴した。序文を執筆した一条兼良はいうまでもなく室町時代随一の文化人である。

二十巻勅撰集の伝統的な構成を持つ。名義を継いだ続古今の部立から、神祇と賀歌を入れ替え、千載集に倣い神祇を末に置いた他に相違はない。歌数は2140首強。幽玄・枯淡を基調とする二条派の歌風を踏襲する。頓阿(19首)・二条為定(14首)・慶運(13首)に代表される二条派の重視に対し、京極冷泉派の入集は皆無に近く、選者とその庇護者の態度が知れよう。また、女流の入選は極めて少ない。

選歌範囲は広く、新古今以後に重心を置きながら各時代より入集している。なかでも新古今時代を尊重し、良経俊成定家家隆および後鳥羽順徳両院が入集数の上位を占める。当代からは、後小松院(26首)が入集数第三位、新続古今の発意者足利義教(18首)、そして下命者後花園院(12首)が重んじられている。義教以外にも武家方の歌が頗る多い。巻頭歌人にして最多入集は選者雅世の父雅縁(29首)であり、雅世(18首)自身、雅経(18首)・雅有(14首)ら選者の先祖の優遇が目立つ。

後花園は再度の勅撰集計画も練っていたが、応仁の乱によって中断し、以後勅撰集は編まれなかった。