志鳥栄八郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。111.107.160.150 (会話) による 2016年2月9日 (火) 19:28個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

志鳥 栄八郎(しどり えいはちろう、1926年1月24日 - 2001年9月5日)は日本の音楽評論家。

東京府北豊島郡日暮里町(現・東京都荒川区日暮里)で毛筆製造業者の八男として生まれる[1]。旧制駒込中学校(現・駒込中学校・高等学校)在学中の同級生に大滝秀治がいる[2]。文学と音楽に熱中して第一高等学校 (旧制)慶應義塾大学予科の入試に失敗し[3]、予備校生活を経て、1944年から旭電化工業に勤務[4]1945年3月10日東京大空襲で実家が焼失したため、福島県石川郡石川町に疎開[5]1945年5月、召集令状を受け、二等兵として相模原の通信第一連隊に入営[6]。敗戦後に復員し、1946年1月から日本造船に勤務[7]1949年旺文社に転じ、1954年から『高校時代』編集部に勤務[8]。旺文社勤務のかたわら、1952年から『レコード芸術』(音楽之友社)に海外盤試聴記を連載するようになり、音楽評論の道に入る[9]1955年2月に旺文社を退社し、フリーとなる[10]

酒好きで胃腸が弱かったため、整腸剤エンテロ・ヴィオフォルムを常用していたが、原材料のキノホルムの副作用により1968年から難病スモンを患い、視力低下や身体の激痛、痺れに苦しんだ[11]1992年、クラシック音楽興隆会を設立し理事長に就任[12]。晩年はポリープ脳梗塞、硬膜下出血、腎不全などを患い[13]、75歳で死去した。

外部リンク

脚注

  1. ^ 志鳥栄八郎『志鳥栄八郎自伝 嵐が奏でる』p.36
  2. ^ 志鳥、p.98
  3. ^ 志鳥、p.115-116
  4. ^ 志鳥、p.122
  5. ^ 志鳥、p.12
  6. ^ 志鳥、p.12-14
  7. ^ 志鳥、p.147
  8. ^ 志鳥、p.178
  9. ^ 志鳥、p.181-182
  10. ^ 志鳥、p.198
  11. ^ 志鳥、p.268
  12. ^ 志鳥、p.386
  13. ^ 志鳥、p.387