出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
張之洞(ちょう しどう)は清末の政治家。洋務派官僚として重要な役割を果たした。曽国藩、李鴻章、左宗棠とならんで、「四大名臣」とも称される。字は孝達、号は香濤・香巌・壹公・無競居士・抱冰。子に張燕卿・張仁蠡、孫に張厚琬(いずれも中華民国の政治家)などがいる。
生涯
1837年、直隷(現在の河北省)南皮で生まれた。16歳で郷試に合格し、26歳で進士(探花)となった。翰林院編修、教習、侍読、侍講学士、内閣学士を歴任した。西太后が強引に光緒帝を擁立した際、それを支持する態度をとったことから引き立てられ、1880年代に山西巡撫、両広総督、湖広総督と歴任し、主に武漢を拠点として富国強兵、殖産興業に努めた。清仏戦争、日清戦争においては強硬派としての主張が目立ったが、両戦争の敗北後は対外融和的な姿勢もみせた。1890年に鉱床が見つかった大冶鉄鉱山の開発をドイツとともに進め、外国借款を通じて鉄道敷設を推進するなど、外国資本と連携した国内開発を推進した。19世紀末におこった変法運動に対しては、著作である『勧学篇』(1898)の中で「中体西用」の考えを示し、急進的すぎる改革を戒めた。1900年の義和団事件の際には劉坤一とともに「東南互保」を結ぶとともに、維新派の唐才常らによる自立軍の蜂起を鎮圧した。死後、文襄と諡された。著書に『広雅堂集』がある。
ちなみに、文化大革命の際に埋葬された墓が破壊され遺体が行方不明となっていたが、2007年6月になって河北省滄州市で発見された。
近年になってから張之洞は再評価され、2006年には張之洞記念館が設立された。
関連項目