張之洞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Dirrival (会話 | 投稿記録) による 2012年5月15日 (火) 06:54個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (Category:清代の進士を追加 (HotCat使用))であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

張之洞
プロフィール
出生: 1837年9月2日
死去: 1909年10月4日
出身地:
職業: 政治家
各種表記
繁体字 張之洞
簡体字 张之洞
拼音 Zhāng Zhīdòng
注音二式 Jāng Jrdùng
和名表記: ちょう しどう
発音転記: ヂャン ヂードン
テンプレートを表示

張之洞(ちょう しどう)は清末の政治家。洋務派官僚として重要な役割を果たした。曽国藩李鴻章左宗棠とならんで、「四大名臣」とも称される。字は孝達、号は香濤香巌壹公無競居士抱冰。子に張燕卿張仁蠡、孫に張厚琬(いずれも中華民国の政治家)などがいる。

生涯

1837年、直隷(現在の河北省南皮で生まれた。16歳で郷試に合格し、26歳で進士探花)となった。翰林院編修、教習、侍読、侍講学士、内閣学士を歴任した。西太后が強引に光緒帝を擁立した際、それを支持する態度をとったことから引き立てられ、1880年代に山西巡撫両広総督湖広総督と歴任し、主に武漢を拠点として富国強兵、殖産興業に努めた。清仏戦争日清戦争においては強硬派としての主張が目立ったが、両戦争の敗北後は対外融和的な姿勢もみせた。1890年に鉱床が見つかった大冶鉄鉱山の開発をドイツとともに進め、外国借款を通じて鉄道敷設を推進するなど、外国資本と連携した国内開発を推進した。19世紀末におこった変法運動に対しては、著作である『勧学篇』(1898)の中で「中体西用」の考えを示し、急進的すぎる改革を戒めた。1900年義和団事件の際には劉坤一とともに「東南互保」を結ぶとともに、維新派の唐才常らによる自立軍の蜂起を鎮圧した。死後、文襄とされた。著書に『広雅堂集』がある。

ちなみに、文化大革命の際に埋葬された墓が破壊され遺体が行方不明となっていたが、2007年6月になって河北省滄州市で発見された。

近年になってから張之洞は再評価され、2006年には張之洞記念館が設立された。

関連項目

先代
衛栄光
山西巡撫
1881-1884
次代
奎斌
先代
張樹声
両広総督
1884-1889
次代
李瀚章
先代
呉大澂
広東巡撫
1888-1889
次代
劉瑞芬
先代
裕禄
湖広総督
1889-1894
次代
譚継洵
先代
劉坤一
両江総督
1894-1896
次代
劉坤一
先代
譚継洵
湖広総督
1896-1902
次代
端方
先代
劉坤一
両江総督
1902-1903
次代
魏光燾
先代
端方
湖広総督
1904-1907
次代
趙爾巽