広橋仲子

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広橋 仲子
続柄 後光厳天皇典侍後円融天皇生母

称号 崇賢門院
身位 典侍准三宮女院
出生 延元元年(1336年)/延元4年(1339年
死去 応永34年5月20日1427年6月14日)(享年89/92)
配偶者 後光厳天皇
子女 後円融天皇永助入道親王尭仁法親王尭性法親王
父親 善法寺通清(養・広橋兼綱
母親 尊雅王女(智仙聖通
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広橋 仲子(ひろはし ちゅうし/なかこ、藤原 仲子紀 仲子延元元年(1336年)または延元4年(1339年) - 応永34年5月20日1427年6月14日))は、室町時代の女性。女院後光厳天皇典侍で、後円融天皇の生母。広橋兼綱の養女で、実父は石清水八幡宮祠官善法寺通清。生母は四辻宮尊雅王の娘(法名智仙聖通)とされる。院号は崇賢門院。姉妹に紀良子足利義詮側室、足利義満生母)、伊達政宗正室輪王寺殿がいる。比丘尼御所の大慈院(南御所)開基とされる。

生涯

後光厳天皇典侍となり、延文3年(1358年)に緒仁親王(後円融天皇)を、貞治元年(1362年)に熙永親王(永助入道親王)を、同2年(1363年)に尭仁法親王を、応安4年(1371年)に尭性法親王を産む。同年、緒仁親王が即位。康暦2年(1380年)1月、准三宮。永徳2年(1382年)には、後円融天皇は後小松天皇に譲位。永徳3年(1383年)、後円融が妃の三条厳子を打擲する事件があり、駆け付けた仲子は酒を勧めて後円融を宥めつつ、出血の止まらない厳子が治療のために退出できるようはからっている。その2週後、後円融が持仏堂に立て籠もり、切腹すると宣言した際も宥めて事なきを得ている。同年4月25日、院号宣下があり、崇賢門院と号した。 応永34年(1427年)5月20日、89歳または92歳で薨去。

参考文献

  • 近藤敏喬 編『宮廷公家系図集覧』東京堂出版、1994年
  • 服藤早苗『歴史のなかの皇女たち』小学館、2002年
  • 『日本女性人名辞典』日本図書センター、1998年