平田陽一郎
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平田 陽一郎(ひらた よういちろう、1908年11月1日 - 1988年10月10日)は、日本のジャーナリスト、実業家。
経歴
[編集]愛媛県八幡浜市生まれ。松山中学校 (旧制)に入学。松山高等学校 (旧制)在学時、のちの日本共産党議長宮本顕治や憲法学者大野盛直らと同人雑誌『白堊紀』を発行するなどの親交があった[1]。
京都帝国大学卒業。大阪毎日新聞記者を経て、1942年愛媛合同新聞社(現愛媛新聞社)編集局長。1946年愛媛新聞社社長。1947年日本で初めて新聞週間行事を実施した。1953年南海放送開局、社長に就任[2]。
1963年1月の第5回愛媛県知事選挙に「県政刷新県民の会」より出馬、自由民主党公認の現職知事久松定武に接戦の末惜敗した[3]。
1978年、反戦を説いた海軍大佐水野廣徳の著作刊行会会長に就任した[4]。
脚注
[編集]- ^ 宮本顕治『網走の覚書 増補新版』新日本出版社、1990年、p.55, pp.60-61
- ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説「平田陽一郎 ひらた-よういちろう」
- ^ 愛媛県選挙管理委員会 知事選挙の歩み
- ^ 水野広徳ミュージアム 水野広徳の顕彰事業について 南海放送株式会社