常大淳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Mehmet~jawiki (会話 | 投稿記録) による 2021年4月25日 (日) 02:13個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

常 大淳(じょう だいじゅん、Chang Dachun1792年 - 1853年)、字は蘭陔は、朝の官僚。

湖南省衡陽出身。1823年進士になり、編修となった。その後、福建督粮道、福建按察使代理、浙江塩運使、安徽按察使、陝西按察使、湖北布政使を歴任し、1850年に浙江巡撫となった。1851年寧波に自ら赴いて海賊の布興を降した。

1852年、湖北巡撫に異動となった。当時、太平天国軍が北上して長沙を攻撃しており、湖北省湖南省の兵は長沙に集中していた。そのため千人の兵しかいなかった岳州は陥落し、続いて太平天国軍は武漢三鎮に向かった。武漢には兵は5千しかおらず、頼みとしていた陝甘兵はいまだ来なかった。太平天国軍は先に漢陽を陥落させ、武昌を攻撃した。向栄が湖南省から援軍に駆けつけたものの太平天国軍に阻まれた。そして太平天国軍はトンネル作戦で武昌を陥落させ、常大淳は自殺した。朝廷は総督の待遇と文節の諡号を贈った。

出典

先代
呉文鎔
浙江巡撫
1850-1852
次代
黄宗漢
先代
龔裕
湖北巡撫
1852-1853
次代
崇綸(チュンルン)