帰依
帰依(きえ、Skt:zaraNa、pl:SaraNa)とは、仏教用語において、拠り所にするという意味。「三宝」に「帰依」、つまり仏教徒になるという意味で最も多く使われる。
概略
一般的に、仏教に帰依をする際には「三帰依戒」(さんきえかい)[1]と、「三竟戒」(さんきょうかい)[2]を授かることになり、これにより正しく仏教に帰依し終わると共に、それ以降は一生涯他の宗教に入信したり、学ぶことをしないという誓いを立てたことになる。それ故、その人の信仰生活はアブラハム系のキリスト教、ユダヤ教、イスラム教や、他のあらゆる宗教における「信仰」や「修行」と区別される。
無論、キリスト教の「バプテスマ」(洗礼)と同様に、入信の正式な儀式である『受戒会』(じゅかいえ)や『灌頂』(かんじょう)を必要とし、ただ信じただけでは正式な仏教徒とは認められない。
サンスクリットの「zaraNa शरण」は、保護所・避難所という意味である。中国語には「依帰」という言葉が『書経 』に出てくる。これは「頼りにする」という程度の意味である。
大乗仏教の一部の宗派では、帰依とは勝れたものに対して自己の身心を帰投して「依伏信奉」することをいう。上座部仏教ではいまだに釈迦の原語に近いパーリ語を使用していることともあり、帰依は元々の意味でその内容が説かれ「盲信」との区別が特に強調される。「自帰依自灯明、法帰依法灯明」(パーリ語:attadiipo attasaraNo dhammadiipo dhammasaraNo)という場合の「帰依」は、「我は(仏)法を拠り所にする」という意味である。なお、「信じる」という言葉はパーリ語やサンスクリット語では別の単語を用いる。
八宗の祖と仰がれる龍樹菩薩は、「仏法の大海は信[3]の一字をもって入る」と『大智度論』の中で述べていて、また、弘法大師・空海は「仏法の殊妙を聞かば、必ずよく帰依し信受すべし」と『十住心論 』に述べている。
仏法僧の「三宝」に帰依することを、先の様に三帰依(さんきえ、パーリ語:tisarana、サンスクリット語:tri-'sara.na)というが、この三帰依の文章は仏道に入る儀式である『受戒会』や『得度』にも用いられ、しばしば音楽法要にも使われる。
厳密にいうと、帰依に際してその対象としての「三宝」が揃わない場合には、三帰依そのものが成立しないために、実際に帰依したことにはならない。これは本来「三宝」が一体であって、例えば古代中国の神聖な祭事の要である鼎(かなえ)の足が三本で、そのどれか一つが欠けていても鼎の本来の用をなさないのと同様である。
三帰依文
三宝に帰依した後は以下の文章を毎日3回唱えて仏法僧への誓いを新たにし、御仏や諸尊、加えて御先祖様の加護を祈るようにする。
また、『華厳経』浄行品第7にある、以下の経文を「三帰礼拝文」とし、日本の伝統宗派では唱えながら礼拝する場合もある。
- 自帰於仏 当願衆生 体解大道 発無上意
- 自帰於法 当願衆生 深入経蔵 智慧如海
- 自帰於僧 当願衆生 統理大衆 一切無碍
なお、南方仏教ではパーリ語で仏法僧の三宝への文章を、以下のように3度繰り返して帰依を表す。
- 1度目の帰依
- BuddhaM saraNaM gacchaami(ブッダン・サラナン・ガチャーミー)
- DhammaM saraNaM gacchaami(ダンマン・サラナン・ガチャーミー)
- SamghaM saraNaM gacchaami(サンカン・サラナン・ガチャーミー)
- 2度目の帰依
- Dutiyampi BuddhaM saraNaM gacchaami(ドゥティヤンピ・ブッダン・サラナン・ガチャーミー)
- Dutiyampi DhammaM saraNaM gacchaami(ドゥティヤンピ・ダンマン・サラナン・ガチャーミー)
- Dutiyampi SamghaM saraNaM gacchaami(ドゥティヤンピ・サンカン・サラナン・ガチャーミー)
- 3度目の帰依
- Tatiyampi BuddhaM saraNaM gacchaami(タティヤンピ・ブッダン・サラナン・ガチャーミー)
- Tatiyampi DhammaM saraNaM gacchaami(タティヤンピ・ダンマン・サラナン・ガチャーミー)
- Tatiyampi SamghaM saraNaM gacchaami(タティヤンピ・サンカン・サラナン・ガチャーミー)