島崎正樹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
島崎しまざき 正樹まさき
島崎正樹肖像 年不詳
人物情報
全名 島崎吉左衛門重寛
別名 鍛名太郎(幼名)・宮之丞・禎三郎・禎蔵・重寛(初名)・吉左衛門(通称)・禎夫(字)・松翠園静雅(号)・粲園・静舎・観山桜・璞堂[1]
生誕 1831年6月13日
日本の旗 日本信濃国馬籠宿(現・岐阜県中津川市
死没 (1886-11-29) 1886年11月29日(55歳没)[2]
日本の旗 日本長野県神坂村
国籍 日本の旗 日本
配偶者 (ぬい)
両親 父:島崎重韶
子供 高瀬園子
島崎秀雄
島崎広助
島崎友弥[注釈 1]
島崎春樹
学問
時代 明治時代
学派 平田派
研究分野 国学
影響を受けた人物 蜂谷源五郎正氏
市岡殷成
間秀矩
馬島靖庵
平田鐵胤
影響を与えた人物 島崎藤村
テンプレートを表示

島崎 正樹(しまざき まさき、天保2年5月4日1831年6月13日 - 明治19年(1886年11月29日)は、幕末国学者。

小説家島崎藤村の父で、「夜明け前」の主人公「青山半蔵」のモデルとなった人物である。

松翠園静雅しょうすいえんせいが粲園さんえん静舎しずのや観山楼かんざんろう璞堂あらたまのや静斎せいさい禎夫さちお。初名は重寛しげひろ通称吉左衛門きちざえもん

人物[編集]

中山道馬籠宿本陣庄屋問屋を兼ねる島崎吉左衛門重韶の子として生まれ、長じて家督を継いだ。

中津川宿の問屋役であった、間秀矩(はざま ひでのり)に国学を学び、また中津川の医師の、馬島靖庵に皇学・漢学を学び、

文久3年(1863年)に秀矩の紹介で平田篤胤の没後門人となる。また自ら馬籠に私塾を開いて子弟に教授した。

安政5年(1858年)以降、三度にわたり村内の火災に際して窮民の救恤に奔走して尾張藩から賞された。

明治2年(1869年)から木曽谷の官有山林の地元への解放運動に奔走するが、明治5年(1872年)に戸長を罷免された。

明治7年(1874年)、上京して教部省考証課雇員として出仕するが、明治天皇の輿に憂国の歌を書き記した扇子を投げたことで、不敬罪に問われた。

明治8年(1875年)に岐阜県飛騨一宮水無神社の宮司となり、権中講儀を兼ねるが、

明治11年(1878年)、明治天皇北陸地方巡幸に際し、憂国の建白を試みて叱責され、挫折をくり返した末に精神を病んだ。

明治13年(1880年)に馬籠へ帰郷したが、後に島崎家の菩提寺である永昌寺を放火した。

明治19年(1886年)年11月29日、島崎家家中の座敷牢の中で死去した。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ と稲葉屋主人との間にできた不義の子とされる。

参考文献[編集]

  • 『日本人名大辞典』 講談社、2001年
  • 『朝日日本歴史人物事典』 朝日新聞出版、1994年
  1. ^ [ID:40242] 島崎正樹:資料情報 - 國學院大學デジタルミュージアム
  2. ^ 永昌寺付近に埋葬