岩田幸彰

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いわた ゆきあき

岩田 幸彰
生誕 (1916-07-25) 1916年7月25日 [1]
日本の旗 日本 東京都
死没 (1994-03-15) 1994年3月15日(77歳没)[2]
死因 心不全
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学法学部
時代 昭和 - 平成
団体 1964年東京オリンピック大会組織委員会
日本オリンピック委員会
など
著名な実績
1964年東京オリンピックの運営
1972年札幌オリンピックの招致
影響を受けたもの 田畑政治
活動拠点 日本
肩書き 1964年東京オリンピック大会組織委員会渉外担当及び企画室長
日本オリンピック委員会名誉委員
など
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岩田 幸彰(いわた ゆきあき、1916年大正5年7月25日[1] - 1994年平成6年3月15日[2])は、日本オリンピック(JOC)委員。東京都出身[1]

長きに渡り日本オリンピック委員を務め、1964年東京オリンピック招致活動と運営に尽力。
そして1972年札幌オリンピック招致活動成功の功労者の一人である[1]

生涯

東京帝国大学ヨット部に所属していた1941年昭和16年)の全日本選手権で、
東京帝国大学(東京大学)が初優勝した時のメンバーの一人だった。
優勝させるために敢えて卒業を一年遅らせるほどヨット競技に熱中しており
「ヨット部を強くする会」を作り資金集めをしていたという。[3]
同年12月、東京帝国大学法学部卒業。[4]

明るく実行力のある人物であり
ヨット仲間や親しい人々からは「岩ちん」の愛称で呼ばれていた[3]

1956年メルボルン五輪に視察員として参加した。
1957年昭和32年)より[1]日本オリンピック委員会及び1964年東京オリンピック組織委員会に入る。
1960年ローマオリンピックの時に、オリンピック運営を学ぶためにローマに約一年間派遣された[5]

1964年東京オリンピック招致活動に大いに関わり、東京五輪組織委員会では渉外担当と企画室長を歴任し[1]
アベリー・ブランデージIOC会長が1964年東京オリンピック開会式の時に「出来ることなら日本で挨拶したい」と希望した際に、
開会式当日の朝、ブランデージ会長の日本語の上達振りを試験するなど[6]
1964年東京オリンピック運営に大いに貢献した。

1972年札幌オリンピック招致活動では、
1966年昭和41年4月26日IOCローマ総会で招致演説プレゼンテーションを行った時に
「冬季オリンピック札幌招致は1940年からの札幌市民のみならず日本国民が永らく願い続けた悲願である」
東京オリンピックの経験を活かし、札幌オリンピックは更に素晴らしい物になる」と述べ[7]、更に、

夏期オリンピックの花は東京で見事に咲いた。
今度は1940年に一度咲くはずだった花を
30年間、雪に埋もれてしまっていた雪の花を
是非とも1972年に札幌で咲かせて欲しい。

と力強く訴えて「札幌のプレゼンテーションが一番優れていた」と好評を得て、不利となっていた招致を成功させた一助となった[1][2][8][9]

そしてオリンピック関連の国際会議で活躍する「JOCの外国語要員」として重用された一方で[10]
国内オリンピック委員会の各国連合体」の創設を提案するなど[11]
日本のみならず国際的なオリンピック活動を推進した。

そして日本オリンピック常任委員を40年近く務めその名誉委員となる[1]

その一方で1969年の時点でアベリー・ブランデージIOC会長退任に伴う「オリンピックの商業化」に懸念を表明し、
1964年東京オリンピックの仕事をしていた当時からずっと矛盾を感じていた」
「今のオリンピックは落ちるところまで落ちるだろう」
「いずれ近代オリンピックには終わりが来る」との見解を示していた[12]

またインターフェイス・コンサルタンツ社長など[1]主に財界人として活躍し、
東急国際ホテル常務だった時期に映画「トラ・トラ・トラ!」制作の時に監督であった黒澤明の提案で、財界人の集まりである「東京キワニスクラブ」に声が掛かり、
素人出演者の一人として「第六艦隊司令長官清水光美中将」役として配役され、軍服着用の上での制作記者会見にも登場した。
しかし黒澤明の降板劇により東京キワニスクラブが「黒澤明が関わらなければ協力しない」と出演依頼を引き揚げてしまい、映画出演が立ち消えとなった[13]

1994年平成6年3月15日、心不全のため逝去。
1998年に開催予定であった長野オリンピックに「力を貸して欲しかった」と関係者から大いに惜しまれた[3]

関連作品

テレビドラマ

脚注

出典

  1. ^ a b c d e f g h i 『現代物故者事典 1994~1996』日外アソシエーツ p. 81
  2. ^ a b c 朝日新聞 1994年3月17日 朝刊 p. 31
  3. ^ a b c 朝日新聞 1994年3月17日 朝刊 p. 23「“国際通”悼む声」
  4. ^ 『東京帝国大学一覧 昭和17年』 p. 664 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  5. ^ 杢代 2018, p. 139.
  6. ^ 朝日新聞 1964年10月10日 朝刊 p. 14「根性で覚えた日本語 ブ会長、見事なあいさつ “日本好きを世界に示す”」
  7. ^ 朝日新聞 1966年4月27日 号外 p. 2「夢は早くも72年へ 冬季五輪招致決定」
  8. ^ 日本オリンピック・アカデミー 1981, p. 96.
  9. ^ 朝日新聞 1966年4月27日 東京 夕刊 11P「東京五輪での底力 冬季五輪の札幌招致 うれしい番狂わせ」
  10. ^ 朝日新聞 1976年5月26日 朝刊 p. 4「日本体育協会 タレント委員 国際会議に弱い国」
  11. ^ 朝日新聞 1972年6月11日 朝刊 p. 20「ゆっくり話そう 上位上達の場に」
  12. ^ 朝日新聞 1969年6月15日 朝刊 p. 13「ゆっくり話そう 五輪は必ず堕落 ブ会長の純粋さ見直せ」
  13. ^ 安藤蕃「映画トラトラトラとキワニス・クラブ」(PDF)『一般社団法人東京キワニスクラブ「30年のあゆみ」』、(社団法人)東京キワニスクラブ、1994年3月31日、90-91頁、2022年10月13日閲覧 

参考文献

  • 日本オリンピック・アカデミー 編『オリンピック事典』株式会社 プレス ギムナスチカ〈初版〉、1981年10月10日、820頁。 
  • 杢代哲雄『評伝 田畑政治 オリンピックに生涯をささげた男』国書刊行会〈新装版〉、2018年6月25日、289頁。ISBN 978-4-336-06267-3