山本健一 (ヤクザ)
山本 健一(やまもと けんいち、1925年3月5日 - 1982年2月4日)は、日本のヤクザ。暴力団・三代目山口組若頭、山健組初代組長、元安原会若衆。「イケイケの山健」の異名を持つ武闘派として知られる。
経歴
1925年3月5日生まれ。出生・出身については、文献によって兵庫県神戸市葺合区(現・中央区)割塚通で川崎重工の技師長の長男として生まれたとするものと、広島県安芸郡熊野町出身とするものがある[1][2][3]。生前関係の深かった美能幸三は、「ヤマケンの? アレも広島じゃけんの」と述べている[4]。
少年時代は、穏やかな性格で頭のよい少年だったという。1942年に大阪電気学校(現・清風高等学校)を卒業したのち横須賀海軍工廠に勤めたが、召集され1945年1月に鳥取の部隊に入隊する。 終戦後は神戸に戻ったものの、家族の消息も掴めず、自暴自棄となって無頼の生活に入っていった。尾崎彰春と街を徘徊するうち、1951年頃、当時三代目山口組(田岡一雄組長)で若頭を務めていた安原政雄(安原会会長)と出会い、安原の若衆となって山口組の傘下に入った。 1953年1月には鶴田浩二襲撃事件に参加し、逮捕される。 また、1954年9月には梶原清晴らと共に地元の谷崎組を襲撃し、当時谷崎組の若頭であった野沢修に重傷を負わせた。この時は懲役3年の実刑判決を受けて加古川刑務所に服役、1957年に刑期を終えて出所後、山口組組長の田岡一雄から盃を受けて直参に昇格した。
1961年に山健組を結成。1963年、田岡の提案で設けられた執行部体制の下で若頭補佐役に就く。その後一時若頭補佐から外れるが、1968年の新体制で再び若頭補佐に就任。 さらに1971年7月には、当時の若頭・梶原清晴(梶原組組長)が大隅諸島 の硫黄島で磯釣り中に溺死すると、同年9月に後任の若頭に就任する。当初山本は、最高幹部間で行われた入れ札(選挙)では山広組組長・山本 広に2対4で敗れていたが、田岡の指名により逆転就任することとなった。
山口組内においては主に武闘派として数々の抗争(夜桜銀次事件、広島抗争等)で功績を挙げることにより、山健組の地位を不動のものとした。1978年には保釈中の身でありながら「大阪戦争」の陣頭指揮を執り、抗争終結の記者会見を開くなどしたため、再び収監されることとなった。
このような功績などもあって、山口組4代目を継ぐと目されていたが、田岡三代目の死から間もない1982年2月に、持病の肝臓疾患のため死去。わずか1年足らずの間に組長と若頭を相次いで失った山口組は、次第に内部対立を深め、一和会分裂から山一抗争へと突き進んでいくこととなった。
仁義なき戦いシリーズで梅宮辰夫が演じる岩井信一のモデルである。
脚注
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