寧海 (巡洋艦)
艦歴 | |
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発注: | |
起工: | 1931年2月20日 |
進水: | 1931年10月10日 |
就役: | 1932年7月31日 |
その後: | 1944年9月19日戦没 |
除籍: | 1944年11月10日(日本海軍) |
性能諸元 | |
排水量: | 基準:2,526t |
全長: | 106.7m |
全幅: | 11.95m |
吃水: | 4.0m |
機関: | 9,500hp 三軸三段膨張式レシプロ機関3基 艦本式4罐 |
最大速: | 22.0kt |
航続距離: | 12ktで5,000浬 |
燃料: | |
乗員数: | 361名 |
兵装: | 50口径14cm連装砲3基 40口径7.62cm単装高角砲6基 ヴィッカーズ式40mm機銃8丁 マキシム8mm機銃10丁 53.3cm水上魚雷発射管連装2基 航空機×1 |
寧海(ニンハイ、NING HAI)は、中華民国海軍の寧海級巡洋艦の1番艦。後に日本海軍の海防艦五百島となった。
艦歴
寧海
日本の播磨造船所相生工場で1931年2月20日起工。1931年10月10日進水。1932年7月30日竣工。
前年9月の満州事変および同年1月の第1次上海事変により関係が悪化した中華民国への引き渡しが危ぶまれたが同年9月1日に中国軍に編入され、第一艦隊を編成した。
1934年6月5日に練習艦隊(司令・王壽廷少将)に編入された。同年の東郷平八郎の国葬の際に日本に派遣された[1]が、6月5日国葬には間に合わず儀仗隊を下関から列車で東京に向かわせて弔意を示し、本艦の横浜入港は6日となった。日中戦争中の1937年9月23日、鎮江上流の揚子江沿岸で日本海軍機の攻撃を受けて損傷、擱座したが、その後日本軍により1938年に浮揚され日本に曳航された。
五百島
1938年6月3日に播磨造船所相生工場に到着、7月11日に「御蔵」と仮称した。同所で12月から1944年6月28日まで改造修理を行い、同年6月1日に海防艦「五百島(いおしま)」として日本海軍に編入された。海上護衛任務に従事していたが、9月19日、御前崎南方で米潜水艦「シャード」(USS Shad,SS-235)の雷撃を受け沈没。9月25日には二等巡洋艦に種別、類別変更の予定であった。11月10日に除籍された
歴代艦長
- 艤装員長
- 海防艦長
同型艦
脚注
- ^ 「第2576号 9.6.2 外国海軍指揮官接待に関する件」 アジア歴史資料センター Ref.C05023436600
- ^ 「昭和19年6月1付 海軍辞令公報(部内限)第1499号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072099400
- ^ 「昭和19年6月8日付 海軍辞令公報(部内限)第1509号「訂正記事」」 アジア歴史資料センター Ref.C13072099500
- ^ a b 「昭和19年7月5日付 海軍辞令公報 甲(部内限)第1526号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072099900
- ^ 「昭和20年11月12日付 海軍辞令公報 甲 第1979号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072108200
参考文献
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9