寛子女王

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寛子女王
閑院宮家
寛子女王
続柄 閑院宮載仁親王第4女子

全名 寛子(ひろこ)
身位 女王
敬称 殿下
出生 1906年2月21日
日本の旗 日本東京府東京市
死去 (1923-09-01) 1923年9月1日(17歳没)
日本の旗 日本神奈川県小田原市
埋葬 1923年9月10日
日本の旗 日本東京都文京区豊島岡墓地
父親 閑院宮載仁親王
母親 載仁親王妃智恵子
栄典 勲二等宝冠章
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寛子女王(ひろこじょおう、1906年明治39年〉2月21日 - 1923年大正12年〉9月1日)は、日本皇族閑院宮載仁親王の第4女子。母は、三条実美公爵令嬢・智恵子身位女王で、皇室典範における敬称殿下

人物[編集]

1906年明治39年)2月21日閑院宮載仁親王同妃智恵子の第4女子(第6子)として誕生。

1923年大正12年)9月1日関東大震災の際、神奈川県小田原市の閑院宮御別邸に父・載仁親王、母・智恵子妃および妹・華子女王と滞在中、御別邸が倒壊し、その下敷きとなって薨去。17歳没。

この際、両親および妹も一時倒壊した御別邸の下敷きとなったが、たいした怪我はなく無事であった。また同震災では、鎌倉市山階宮武彦王妃の佐紀子女王藤沢市東久邇宮家師正王も遭難し、皇族ではあわせて3名が命を落とした。後年、昭和天皇は、皇族の薨去があったことを理由に9月1日を「慎みの日」としていた。

遺体は、駆逐艦夕凪で4日夜に芝浦に運ばれ[1]、同年9月10日に閑院宮邸で午前7時に告別ノ儀を、引き続き東京都文京区豊島岡墓地にて埋柩ノ儀が執り行われ、午前9時30分に済まされた[2]

命日に当たる1948年昭和23年)9月1日、皇籍を離脱して閑院家当主となっていた兄の閑院春仁が小田原の別邸内に供養のため地蔵尊を建立した。

親族[編集]

栄典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ [1]
  2. ^ 『官報』号外「宮廷録事」1923年9月10日
  3. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1923年9月17日。