宮田用水
宮田用水 | |
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延長 | 9.8 km |
平均流量 | -- m³/s |
流域面積 | -- km² |
水源 | 愛知県犬山市 |
水源の標高 | -- m |
河口・合流先 | 木曽川(一宮市) |
流域 | 愛知県 |
宮田用水(みやたようすい)は、岐阜県各務原市と愛知県犬山市の県境である木曽川犬山頭首工を取水源とする農業用水である。濃尾用水(羽島用水、宮田用水、木津用水)の一つである。宮田導水路ともいう。
宮田用水自体は、延長10kmに満たない用水であるが、丹羽郡扶桑町と江南市の農業用水という役割のみでなく、大江用水、新般若用水、奥村用水に水を供給する役割が大きい。これらの用水網は、愛知県尾張地方北部~西部に網羅される。
宮田用水土地改良区や東海農政局などは、大江用水、新般若用水、奥村用水も宮田用水系の用水路として管理している。
2006年(平成18年)、濃尾用水として疏水百選に選定される。
地理
犬山頭首工にて他の濃尾用水とともに取水する。岐阜県側は羽島用水、愛知県側は宮田用水、木津用水の取水口がある。犬山市木津にて木津用水と分かれ、西進する。丹羽郡扶桑町から江南市草井町までは地下のパイプラインとなっている。この間の江南市中般若町で御囲堤をくぐる。ほぼ御囲堤に沿って西進し、江南市宮田町で、大江用水、新般若用水を分流する。一宮市浅井町黒岩で木曽川の支流である南派川に合流する。
沿革
「御囲堤」の構築と用水の開削
1608年に徳川家康の命によって、木曽川を利用した木曽ヒノキの輸送を確保と大阪の旧豊臣勢からの防衛を目的として、犬山から弥富に至る木曽川左岸に約47kmにわたる連続堤御囲堤(おかこいつつみ)が完成。これに伴い、木曽川から濃尾平野に流れていた支流を全て塞き止めることになり、一帯の農地は水源を失うことになった。
そこで、木曽川本流から直接取水することになり、1610年(慶長15年)に葉栗郡大野村(現:一宮市浅井町大野)と般若村(現・江南市般若町)の2箇所に取水用水門が完成。ここから大江用水、新般若用水への導水路が築かれた。これらの用水は尾張藩直営となり、郡奉行(=代官)より地位が高い水奉行という役職を設置すると共に、農民に「井組」と呼ばれる管理組織を作らせて実際に運用に当たらせた。
取水門の移動と宮田用水事件
しかし、木曽川からの取水は洪水による土砂の堆積が起きると水量が減るという難点に加え、地形的な川筋の変化が齎す河底の侵食は取水の不安定さを招いた。1650年頃には大野村の水門が使用できなくなり、葉栗郡宮田村(現:江南市宮田町)と黒岩村(現:一宮市浅井町黒岩)の境付近に新たな水門を設けざるを得なくなった(この水門は、現在の宮田用水と南派川の合流地点である)。
近代に入ると、1924年に大井ダムが完成すると共に木曽川に流れる水量が減少、これに対して用水を利用していた農民が慣行水利権を主張して、発電用水利権を主張した大同電力と争った。結局、1939年に今渡ダムを建設して用水の取水量を確保することで両者に和解が成立した。
近代化と「見えない用水路」
戦後に入って、1957年に国営濃尾用水事業により宮田用水の大幅改良が開始。1967年に犬山頭首工が完成し、宮田・木津・羽島の3用水を濃尾用水として共同で取水し、安定取水が実現した。だが、用水に工業汚水や生活汚水が大量に排出され水質が悪化、農作物にも悪影響が出始める。
そこで、1969年(昭和44年)から国営事業により日本初の「用水路のパイプライン化(地中化)」工事が始まり農業用水路の大部分を地下化、従来の用水路は排水路に転用することになった。この工事は1988年に完成し、2006年に濃尾用水として疏水百選に選ばれた。
流域の自治体
関連する用水
新般若用水
- 1650年頃、葉栗郡宮田村(現:江南市宮田町)と黒岩村(現:一宮市浅井町黒岩)の境付近に新たな水門を設けた際に、新たに築かれた用水。般若用水の水不足を補う役割がある。一部は木曽川の支流であった水法川の跡を利用。
- 江南市宮田町で宮田用水から分流。一宮市と江南市との境沿いに南下し、一宮市時之島で般若用水と合流し、一宮市平島で青木川と合流。
大江用水
- 1001年(長保3年)、尾張国国司である大江匡衡(おおえまさひら)が築いた用水。大江用水の名前は大江匡衡から名づけられている。
- 江南市宮田町で宮田用水から分流。西進し、一宮市浅井町尾関で奥村用水を分流し南下。一宮市市街、稲沢市を通過し、あま市で蟹江川に合流する。
奥村用水
- 新般若用水と同時期に築かれた用水。
- 一宮市浅井町尾関で大江用水から分かれ西進。市内木曽川町で南下し、市内起の濃尾大橋付近で木曽川に合流。
関連項目
外部リンク