孤峰智璨

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孤峰 智璨(こほう ちさん、1879年8月16日 - 1967年11月1日)は、日本の曹洞宗僧侶神奈川県最乗寺住職總持寺独住18世貫首。俗姓は奥田。号は瑩堂。

来歴

明治12年富山県生まれ。1892年13歳で得度、石川県永光寺孤峰白巌の法をつぐ。1901年から臨済宗円覚寺釈宗演長国寺杉本道山西宮海青寺中原南天棒原劉洲らに師事。1904年曹洞宗大学林(現駒澤大学)卒業。1909年教導講習院卒業。

1905年から千葉泉福寺長野県頼岳寺、石川県永光寺、神奈川県最乗寺各住職。1928年師家となり、最乗寺専門僧堂長、長野県専門尼僧堂長、曹洞宗総持寺副監院、藍院、副貫首を経て1957年貫首。1966年横浜市鶴見鶴見女子大学を創立。著書に「承陽大師伝」「常済大師伝」「冠註 伝光録」「曹洞宗両大山沿革史」「印度支那日本禅宗史」など。

1967年11月1日遷化、88歳[1][2]

出典

  1. ^ kotobank. “孤峰智璨(日本人名大辞典)”. 2020年3月7日閲覧。
  2. ^ kotobank. “孤峰智璨(20世紀日本人名事典)”. 2020年3月7日閲覧。

 

先代
渡辺玄宗
總持寺貫首
独住18世:1957 - 1967
次代
岩本勝俊