大秦

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大秦(だいしん)は、中国の史書に記載されている国名で、ローマ帝国、のち東ローマ帝国のことを指すとされる。
「ローマ帝国」を現代中国語で書くと「羅馬帝国」となる。

大秦に関連する記述のある文献

後漢書

和帝の永元九年(97年)に西域都護の班超甘英を使者として大秦に派遣した」

大秦の初出である。この後甘英はシリアにまで到達し、地中海を渡って大秦へ赴こうとしたが、パルティア人の船乗りに「大秦までは長ければ二年以上も航海せねばならず、長期間陸地を見ないために心を病んで亡くなる者さえいる」と言われたために大秦に行くことを諦めたとの記述がある[1]

桓帝の延憙九年(166年)に大秦国王の安敦(アントン)が遣わした使者が日南郡に訪れて象牙・犀角・玳瑁を献上した。初めて(大秦と漢は)交流を持つことができた[2]

安敦とはローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(位161年-180年)、またはその先代皇帝であるアントニヌス・ピウス(位138年〜161年)の「アントニヌス」の音を写したものと考えられる。ただローマ側の史書には使者を派遣したという記述が見られず、また献上品もインドアフリカの産物であることからローマ帝国の商人が皇帝の使者と偽って中国との貿易を企てたのではないかと考えられる(『後漢書』は献上物に特に珍奇なものは無かった、間違って伝えられたからではないかと書き記している)。なお日南郡とは現在のベトナム社会主義共和国フエ付近に置かれていた後漢である。

魏略

「大秦には普段は王はおらず、国に災難があった場合には優れた人物を選んで王とする。災難が終われば王は解雇されるが、王はそれを恨まない」

これは共和政ローマにおける独裁官に関する記述であると考えられる(日本語の『独裁官』は意訳であって、元の言葉を直訳すると『臨時の王』である)[3]

続資治通鑑長編

「大秦より使者が訪れた。(中略)国王の名を滅加伊霊改撒(ミカイルカイザー)という。かつて九百余年前に朝貢したがその後朝貢せず、今再びやって来た」

1081年の出来事である。その九百余年前にも大秦より使者が来たということなので、これは前述の166年の大秦国王安敦が使者を派遣したことを指していると考えられる。つまり中国側(当時は北宋)は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)がローマ帝国を継承した国家であるということを認識していたということである。なお、滅加伊霊改撒はビザンツ皇帝ミカエル7世ドゥーカス(位1071年1078年)とされる。

補足 『宋史』巻490・列伝第249「外国六」の「拂菻」の条では、北宋の元豊四年=1081年に朝貢使を派遣してきた「拂菻国」(東ローマ帝国のことか)の王の名を「滅伊霊改撒」と記す。

脚注

  1. ^ ウィキソース出典  (英語) 後漢書/卷88, ウィキソースより閲覧。  西域傳 第七十八 安息」: 「繁体字中国語: 和帝永元九年 都護班超遣甘英使大秦 抵條支 臨大海欲度 而安息西界船人謂英曰 海水廣大 往來者逢善風三月乃得度 若遇□風 亦有二歲者 故入海人皆繼三歲糧 海中善使人思土戀慕 數有死亡者」とある。なお、「安息」とはアルサケス朝パルティアのことで、始祖アルシャク Aršak- (アルサケス1世)の音写に由来すると考えられている。
  2. ^ ウィキソース出典  (英語) 後漢書/卷88, ウィキソースより閲覧。  西域傳 第七十八 大秦国:「繁体字中国語: 至桓帝延熹九年、大秦王安敦遣使自日南徼外獻象牙﹑犀角﹑輂瑁 始乃一通焉
  3. ^ これらは『後漢書』西域列伝および『三国志』魏書 烏丸鮮卑東夷伝末尾の裴松之による注記の『魏略』西戎伝からの引用に記述がある。『後漢書』卷88・列伝78「西域 大秦」:「其王無有常人、皆簡立賢者。国中災異及風雨不時、輒廃而更立、受放者甘黜不怨」。『三国志』「魏書」卷30・列伝30「烏丸鮮卑東夷」:「魏略西戎伝曰:(中略)大秦國(中略)其國無常主、國中有災異、輒更立賢人以為王、而生放其故王、王亦不敢怨」。

関連項目

外部リンク