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夏井昇吉

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獲得メダル

世界選手権を制しメダルを掲げる夏井
日本の旗 日本
柔道
世界柔道選手権
1956 東京 無差別級

夏井 昇吉(なつい しょうきち、1925年10月19日 - 2006年9月13日)は柔道家(九段)。第1回世界選手権覇者。元・東北柔道連盟顧問。

来歴

秋田県男鹿市船川に生まれる。幼少期から運動神経は抜群で、いわゆる“わんぱく坊主”として近所でもよく知られていた[1]

秋田工業高校入学と同時に、夏井の体格の良さ・足腰の強さ目を付けたラグビー部に勧誘され[1]、入部後はロックとして活躍した[2]戦争による繰上げ卒業後は、8ヶ月間小学校の教員を勤めた後に徴兵され、弘前野砲連隊、東京の機械整備学校で過ごす[1]。半年間戦車の勉強をしたところで終戦[1]

秋田に帰郷すると1946年5月に秋田県警に入り、21歳で柔道を始める[2]。強靭な肉体とスタミナを武器に他の警察官を圧倒し、1年3ヵ月後には師範から三段を許される[2]

当時の署長であった早川信次郎の推薦により[1]1949年講道館へ柔道留学。以降、柔道漬けの日々を送り、その技に一層の磨きをかける事となる。講道館入門時の夏井は醍醐敏郎ら日本トップレベルの猛者に全く歯が立たなかったが[2]、努力によってみるみる力をつけ、1954年全日本選手権では3位に食い込む。後に醍醐も夏井について、その上達のスピードと粘り強さを賞賛している[2]

1956年の第1回世界選手権の代表選考会では決勝で醍醐を破り、日本代表に選出される。また同年5月に蔵前国技館で開催された世界選手権の決勝では、それまでに3度も全日本選手権を制した吉松義彦を判定で破り、見事に初代世界王者の座についた。翌1957年の全日本選手権でもその勢いは衰えず、決勝では曽根康治を下して全日本初優勝を成し遂げる。

引退後は1年間ヨーロッパで柔道を指導する[2]も、帰国後は柔道の講師ではなく警察官の道を全うし、いくつかの警察署で署長を歴任した[2]。夏井の信念である「文武両道」は、現在でも秋田県警で伝承されている[2]1992年には九段に昇段し、赤帯を許される[3]。また、全日本柔道連盟の評議員や秋田県柔道連盟会長(1985年-2003年)も務め[1]、秋田県小学生選手権など地元の大会を開催したほか、全国女子体重別選手権(現・講道館杯)を3年連続で秋田へ招致するなど、地元の柔道発展に尽力した[1]2001年より東北柔道連盟の会長に就任。また、多忙の合間をぬい趣味のゴルフにも興じていた[1]

2006年9月13日の午前9時27分、入院していた故郷・男鹿市内の病院にて呼吸不全のため[2]死去。享年80。

主な戦績

  • 1948年 - 秋田県警察大会優勝
  • 1949年 - 東北管区警察大会優勝
  • 1951年 - 全日本選手権ベスト8
  • 1952年 - 全日本選手権ベスト16
  • 1953年 - 全日本選手権ベスト8(吉松義彦に敗北)
  • 1954年 - 全日本選手権第3位(醍醐敏郎に敗北)
  • 1955年 - 全日本選手権準優勝(吉松義彦に敗北)
  • 1956年 - 第1回世界選手権優勝(当時は体重別無しのため「歴史上、唯一の世界チャンピオン」とも)
  • 1957年 - 全日本選手権優勝

外部リンク

脚注

  1. ^ a b c d e f g h “故 夏井昇吉先生のご逝去を悼む”. 機関紙「柔道」 (財団法人講道館). (2006年12月) 
  2. ^ a b c d e f g h i “評伝 -夏井昇吉9段 文武両道を体現した初代世界チャンピオン-”. 近代柔道(2006年12月号) (ベースボール・マガジン社). (2006年12月20日) 
  3. ^ “全国物故者(九段以上)”. 柔道一代 徳三宝 (南方新社). (2007年3月10日)