国造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。219.202.70.176 (会話) による 2012年2月19日 (日) 05:17個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎社家として系譜を伝えた国造家)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

国造(くに の みやつこ・こくぞう・こくそう)は、古代日本における地方官である。軍事権、裁判権なども持ち、実質的にその地方の支配者であったが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。

訓の「みやつこ」とは「御奴(ミヤツコ)」または「御家つ子」の意味とされる。

概要

大和朝廷の行政区分の1つである国の長と言う意味で、この国が示す範囲は令制国が整備される前の行政区分であるため、はっきりと判明していない。その地域の豪族が支配していた領域がそのまま国として扱われていたと考えられている。また国造の定員も1人とは限らず、1つの国に複数の国造がいる場合もあったとされる。朝廷への忠誠度が高い県主とは違い、元々、国主(くにぬし)と言われていた有力な地方の豪族が朝廷に帰順したときに、そのまま国造に任命され、臣・連・君・公・直などの姓(カバネ)が贈られ、かなりの自主性の下にその地方の支配を任されていた。そのため、軍事権、裁判権を持つなどその職権の範囲はかなり広かった。

国造が大王から与えられた姓(カバネ)を概観にすると、

  1. 畿内及び周辺諸国の直姓国造
  2. 吉備や出雲の臣姓国造
  3. 山陽道の一部と南海道の凡直(おおしのあたい)姓国造
  4. 東海・東山の御名代の伴造(とものみやつこ)姓国造
  5. 東の毛野(けぬ)、西の筑紫・豊・肥の君姓国造

など、地域により多様である。その編成は一時的に、一律に行われたものではないことが分かる。

国造には、東国の国造のように部民屯倉の管理なども行っていたり、出雲の国造のように神祇を祀り、祭祀により領内を統治することなども行っていたり、国造などのように外交に従事したりしたことなどが分かる。また、筑紫の国造のように北九州を勢力下に入れ、朝廷に反抗する者もいた。

国造の下に(あがた)があり、かなり整備された国県制があったとする見解もある。しかし、国造制の実態や中小豪族との関係で不明な点が多く、律令制以前の地方支配の実態は明確になっていない。

大化の改新以降は世襲制の名誉職、主に祭祀を司るものになり、従来の国造の職務は郡司に置き換えられた。また、国造が治めていた国は整理・統合、あるいは分割されていき、令制国に置き換えられていった。

律令国家の成立により、国造の支配はなくなったが、国造そのものはなくならなかった。経済基盤として国造田などが支給され、祭祀などを司った。また、郡司などを兼任する者もいた。しかし、8世紀後半以降にはなくなっていった。

9世紀成立の全国135の国造の設置時期・任命された者らの記録「国造本紀」(『先代旧事本紀』巻10)がある。

国造本紀考

文久元年(1861年)の栗田寛著作の『国造本紀考』に、「国造本紀」という文献の来歴や偽書の指摘、国造各々の詳細な解説が記述されている。「国造本紀」は珍重な書物で、一般に広く普及したものではないという指摘がある。

大化の改新(7世紀後半)以降も存続した国造

主な新国造

社家として系譜を伝えた国造家

参考文献

  • 大川原竜一「大化以前の国造制の構造とその本質 -記紀の「国造」表記と『隋書』「軍尼」の考察を通して-
  • 青木書店歴史学研究』2007年7月号 No.827 p41 - p57
  • 三原市史第一巻(通史編一) 地理、原始・古代・中世の通史

関連項目