四宮荘

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四宮荘(しのみやのしょう)は、信濃国更級郡(現在の長野県長野市篠ノ井地区から千曲市更埴地区)にあった荘園

概要

武水別神社

荘名は信濃国四ノ宮の武水別神社の鎮座に由来するという説がある[1]。北は聖川を境に石河荘、南は小谷荘に接する[2]

吾妻鏡文治2年3月12日1186年4月3日)条に後白河法皇から源頼朝に示された「関東御知行国々内乃具未済庄々注文」では荘内が北条、南条に分けられ、ともに仁和寺領となっている。『吾妻鏡』同4年(1188年2月2日条には、地頭が年貢や領家得文を未納し、仁和寺が鎌倉幕府に訴えている。のちに仁和寺北院領として証性上人、証恵上人が安堵している。また勅旨田があり、永仁6年(1298年)8月2日の仁和寺宮令旨では、「北院領四宮勅旨」を高山寺領として安堵しており、延慶3年(1310年)6月16日、伏見上皇は院宣によって安堵している。

鎌倉時代末期には北条顕時が地頭を務めていたが、建武2年(1335年)の中先代の乱では諏訪神党の四宮左衛門太郎が北条残党として建武政権に反乱を起こしたが鎮圧され[3]、同年11月9日には足利尊氏により荘内北条地頭職が諏訪円忠(頼貞)に渡付され、天龍寺に寄進された。貞和2年(1346)の諏訪円忠四宮荘在家注進状によれば、荘内北条は在家35宇のうち、定在家が25宇が、免在家が10宇、定田41町9段のうち、免田が28町5段で、100貫文を領家仁和寺に、300貫文を天龍寺に年貢が割り当てられている[4]。北条は長谷寺の参道以北、南条は稲荷山桑原方面と推定されている[1]。室町時代には赤沢氏が地頭となり、大塔合戦の戦場にもなった。

嘉暦4年(1329年)には諏訪大社の造営を負担し、以後複数回にわたって上社の神役を勤仕し(『諏訪御符礼之古書』)、天正6年(1578年)の造営清書帳では「四宮之郷」と記されている。

脚注

  1. ^ a b 「『角川日本地名大辞典」p.568
  2. ^ 「長野県の地名」平凡社 p.833
  3. ^ 長野県史 通史編 第3巻 p.159
  4. ^ 長野県史 通史編 第3巻 p.351

参考文献