呂尚
呂尚 | |
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斉 | |
初公 | |
『三才図会』に描かれた呂尚 | |
王朝 | 斉 |
姓・諱 | 姜尚・姜望・呂尚 |
字 | 子牙・牙 |
生年 | 不詳 |
没年 | 不詳 |
呂 尚(りょ しょう)は、紀元前11世紀ごろに活躍した周の軍師、後に斉の始祖。姓は姜、氏は呂、名は尚または望、字は子牙または牙。謚は太公。斉太公、姜太公とも呼ばれる。一般的には、太公望(たいこうぼう)という呼び名でも知られる。
経歴
歴史上重要な人物にも拘らず、数々の伝説に包まれて実態がつかめない存在である。
周に仕えるようになった経緯については、伝承における呂尚像の節で後述するもの以外にも諸説ある。また羌の出身とも言われているが、実際のところは不明である。
周の軍師となり、文王の子武王を補佐し、殷の帝辛(受王)を牧野の戦いで打ち破る。後に斉に封ぜられる。兵法書『六韜』の著者とされたがこれは全くの創作(後代の戦略家による著作)である。
唐の粛宗からは武成王[1]がおくられ、文宣王孔子とともに文武廟に祭祀された。
伝承における呂尚
- 太公望という別名は、一般的には渭水で釣りをしていたところを文王が「これぞわが太公(祖父)が待ち望んでいた人物である」と言って召し抱えたという話に由来するとされる。この故事にちなみ、日本では釣り好きを「太公望」と呼ぶ。江戸時代には「釣れますか などと文王 側により」という川柳も作られている。一方、中国で「太公望の魚釣り」(太公釣魚)と言えば、「下手の横好き」と言うニュアンスである。呂尚は曲がっていないまっすぐな針を使い、さらにあえて釣り針を水中には入れず水面から三寸上に垂らしたとも言われる[2]。
- 陝西省宝鶏には太公望が釣りをしたという釣魚台があり、観光地となっている。
- 呂尚が斉に封ぜられた時に昔別れた妻がよりを戻そうと来たがこれを拒んだという逸話がある(「覆水盆に返らず」)[3]。
- 同僚である周公と人材について論じた際、周公が血縁主義で身内を優先すべきといったのに対し「そんな国は外との友好が薄く諸国から領土を削り取られるだろう」と反対した。周公は能力主義の太公(呂尚)に「あなたのようなやり方では家臣に乗っ取られるだろう」と応じた(『呂氏春秋』「仲冬紀・長見」)。果たして、周公の魯は周辺諸国との軋轢で摩滅し、太公望の斉は大臣の田氏による簒奪を受けて滅亡した。
- 主に沖縄を中心とした地域に見られる、石敢當という魔除けの神様として封神されたとする伝承もある[要出典]。
封神演義における呂尚像
明代の娯楽小説『封神演義』においては姜子牙と称し、殷周革命を指揮する周の軍師かつ崑崙山の闡教の道士として主役格で登場する。
呂尚をあつかった作品
- 宮城谷昌光『太公望』文藝春秋
- 諸星大二郎「太公望伝」、『無面目・太公望伝』潮出版社
- 横山光輝『殷周伝説―太公望伝奇』潮出版社コミック
- 芝豪『太公望 ~殷王朝を倒した周の名軍師~』PHP研究所
- 許仲琳『封神演義』 安能務編訳、講談社文庫全3巻ほか
- 藤崎竜『封神演義』集英社 ※上記安能務訳が原作の漫画