北条仲時
北条仲時画像/蓮華寺蔵 | |
時代 | 鎌倉時代末期 |
生誕 | 徳治元年(1306年) |
死没 | 元弘3年/正慶2年5月9日(1333年6月21日) |
別名 | 時阿(法名) |
墓所 | 滋賀県米原市の蓮華寺 |
官位 | 従五位下弾正少弼、越後守 |
幕府 | 鎌倉幕府六波羅探題北方 |
主君 | 守邦親王 |
氏族 | 北条氏(普恩寺流) |
父母 | 父:北条基時、母:未詳 |
兄弟 | 仲時、高基 |
子 | 友時、女子 |
北条 仲時(ほうじょう なかとき)は、鎌倉時代末期の北条氏一門。鎌倉幕府最後の六波羅探題北方である。普恩寺流で第13代執権である北条基時の子。普恩寺 仲時(ふおんじ なかとき)とも呼ばれる。
生涯
元徳2年(1330年)11月(7月21日)、鎌倉を発って上洛する[1]。12月27日、六波羅探題北方となる[1]。
元弘元年(1331年)の元弘の乱で、挙兵して笠置山(京都府相楽郡笠置町)に篭城した後醍醐天皇を攻め、天皇を隠岐島に配流する[1]。さらに護良親王や楠木正成らの追討・鎮圧を担当する[1]。
元弘3年/正慶2年(1333年)5月、後醍醐の綸旨を受けて挙兵に応じた足利尊氏(高氏)や赤松則村らに六波羅を攻められて落とされると、5月7日に六波羅探題南方の北条時益とともに、光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとしたが、道中の近江国(滋賀県)で野伏に襲われて時益は討死し、仲時は同国番場峠(滋賀県米原市)で再び野伏に襲われ、さらには佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれ、やむなく番場の蓮華寺に至り天皇と上皇の玉輦を移した後に、本堂前で一族432人と共に自刃した[1]。享年28。この史実は、『増鏡』、『梅松論』、『太平記』に詳しく記載されている。天皇と上皇は道誉に保護されて京都へ戻された。蓮華寺には自刃した432人の五輪塔群がある。
脚注
註釈
出典
参考文献
- 書籍
- 史料
- 『増鏡』
- 『梅松論』
- 『太平記』