倉橋家
倉橋家 | |
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本姓 | 安倍氏土御門庶流 |
家祖 | 倉橋泰吉 |
種別 |
公家(半家) 華族(子爵) |
出身地 | 山城国 |
主な根拠地 |
山城国 東京府 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
倉橋家(くらはしけ)は、安倍氏土御門家庶流の堂上家。家格は半家。
概要
慶長17年(1612年)、安倍晴明の末裔である陰陽頭(従三位・非参議)土御門久脩の次男泰吉が分家して「倉橋」を称したのに始まる。
「倉橋」とは遠祖・安倍倉橋麻呂の名に因んだと言われている。
初代民部卿泰吉以降、代々陰陽道を業とし、江戸時代の石高は150石であったが、10代当主の治部卿泰聡で明治に至り、華族に列して泰顕が子爵に叙せられた。1920年12月、泰昌の後継が未成年の娘の美佐子[注釈 1]のみとなったため爵位を返上した[1]。泰昌の従兄にあたる泰隆は爵位を嗣がなかったが、その子孫が、婿養子相続を経てはいるが倉橋家として現存している。
家紋は土御門家に倣い「揚羽蝶」、菩提寺は「真如堂」。江戸時代の居所は「堺町御門外」とした。
なお、安倍晴明の男系血脈は、宇多源氏綾小路家[注釈 2]の子で倉橋家の養子となった有儀(1738年 - 1784年)の代で断絶している。倉橋家の現当主・倉橋純信は、戦国時代の安倍氏嫡流当主土御門有脩から数えて4回女系を経た14代目の子孫[注釈 3]にあたる。
歴代当主
- 倉橋泰吉 (1599年 - 1670年) 従二位
- 倉橋泰房(泰純) (1639年 - 1673年) 従四位下
- 倉橋泰貞 (1668年 - 1748年) 従二位
- 倉橋泰章 (1687年 - 1753年) 従二位
- 倉橋泰孝 (1715年 - 1749年) 従三位
- 倉橋栄久 (1736年 - 1751年) 従五位下 ※養子、大原榮敦の子。
- 倉橋有儀 (1738年 - 1784年) 従三位 ※養子、綾小路俊宗の子。
- 倉橋泰栄[‡ 1] (1758年 - 1806年) 正二位
- 倉橋泰行 (1779年 - 1858年) 正二位
- 倉橋泰聡 (1815年 - 1881年) 正三位
- 倉橋子爵家
- 分家
系譜
凡例 1) 実線は実子、点線(縦)は養子
土御門久脩 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
倉橋泰吉 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
泰房(泰純) | 泰貞[† 1] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
泰貞 | 泰章 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
栄久[† 2] | 泰孝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
有儀[† 3] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
土御門泰栄 | 泰行 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
泰聡 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
泰顕 | 泰清 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
泰清[† 4] | 季丸 | 泰隆 | 泰量 | 岡崎泰光 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
泰昌 | 信忠[† 5] | 豊子 | 泰博 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
美佐子 | 純信 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
輝行 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幕末の領地
国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』より算出した幕末期の倉橋家領は以下の通り。(2村・150石)
脚注
注釈
- ^ 後、小谷勝之助と結婚。
- ^ 男系を辿ると藤原北家三条家
- ^ 現在の倉橋家の安倍氏血脈:安倍晴明-18代-土御門有脩-勧修寺晴豊室-坊城俊昌-勧修寺経広-経敬-尹隆-愛宕通貫室-倉橋有儀室-4代-豊子(婿・信忠)-純信-輝行
男系を辿ると、倉橋信忠は松平恒三郎の子のため松平氏に行き至る。
出典
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』上巻、554頁。