伊達宗敦

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伊達宗敦
伊達宗敦
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 嘉永5年5月27日[1]1852年7月14日
死没 明治44年(1911年1月6日[2]
改名 経丸(幼名)、宗敦
墓所 文京区護国寺
官位 従四位下侍従左京大夫従三位
主君 明治天皇
陸奥仙台藩知事
氏族 宇和島伊達氏
父母 父:伊達宗城、母:武田氏
養父:伊達慶邦
兄弟 真田幸民宗敦、初子、敏、奥平昌邁、煕、順、瀧脇信広、幾、牧野忠良宗倫、泰、宗曜蒔田広城
正室:広幡忠礼の娘
継室:松根三楽の娘
宗経、良春、幸子、貞一郎、隆知、栄利、正子、順之助
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伊達 宗敦(だて むねあつ)は、仙台藩知事(在任中の伊達家の当主は30世14代伊達宗基のまま)で、13代仙台藩主・伊達慶邦の養嗣子(のち廃嫡)、男爵官位左京大夫侍従正四位

略歴

伊予国宇和島藩主・伊達宗城の次男(五男とも)。幼名は経丸。慶応4年(1868年)3月、仙台藩主・伊達慶邦の養子となった。当初は婿養子となるはずであった。同年、従四位下・侍従・左京大夫に叙任する。同年8月、奥羽列藩同盟に組したことから、慶邦と共に新政府から官位を剥奪される。11月、仙台藩の降伏に伴い、慶邦と共に東京に護送されて、良源院で謹慎する。12月、慶邦が奥羽列藩同盟の盟主となったために新政府軍から隠居、謹慎を申し付けられたとき、宗敦も廃嫡された。なお、仙台藩伊達家は慶邦の四男・宗基が跡を継いだ。

明治2年(1869年)9月、慶邦と共に謹慎を解かれる。同年、版籍奉還が行われ、宗基は知藩事になったものの、幼少のために政務を執ることができず、11月に宗敦は知藩事の補佐を命じられる。明治3年(1870年)10月、新政府は宗基の代わりに宗敦を新たな知藩事として任命した。宗敦は知藩事として実質的な政務を行ったが、伊達家当主は宗基のままであり、当主歴代には数えない。

明治4年(1871年)の廃藩置県により、藩知事を退任する。同年10月、明治政府からイギリス留学の許可を得る。語学修学を目的に5年間の自費留学を予定していた。明治8年(1875年)2月、帰国した。明治17年(1884年)、終身華族となり、新たに家を興した。明治21年(1888年)には男爵となった。明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に当選し、3期連続で務め死去するまで在任した[2][3]

伊達宗敦の肖像写真

明治44年(1911年)に58歳で死去した。伊達男爵家は長男の宗経(直知)が継承した。

栄典

系譜

脚注

  1. ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻、57頁。
  2. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』76頁。
  3. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、18頁。
  4. ^ 『官報』第1758号「授爵叙任及辞令」1889年5月13日。
  5. ^ 『官報』第5089号「叙任及辞令」1900年6月21日。

参考文献

  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。


日本の爵位
先代
叙爵
男爵
伊達(宗敦)家初代
1888年 - 1911年
次代
伊達宗経