代 (五胡十六国)

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拓跋部 315年 - 376年 前秦
北魏
代の位置
代国の最大版図と周辺国。
公用語 鮮卑語
首都 盛楽→平城
代王
315年 - 316年 拓跋猗盧
317年 - 321年拓跋鬱律
338年 - 376年拓跋什翼犍
変遷
建国 315年
前秦によって滅亡376年

(だい、拼音:Dài)は、中国五胡十六国時代に建てられた鮮卑拓跋部の国。315年から376年まで8主を有し、およそ61年続いた。

歴史

代の建国

建国時の代国

拓跋禄官の跡を継いだ拓跋猗盧は、3分割された拓跋部を再び統一。310年、并州刺史の劉琨は拓跋部に遣使を送り、子の劉遵を人質とさせた。猗盧はその意を喜び、厚く褒美を贈る。白部大人は叛いて西河に入り、これに応じて鉄弗部劉虎雁門で挙兵、劉琨のいる新興、雁門の2郡を攻める。劉琨は援軍を要請し、猗盧は甥の拓跋鬱律の将騎2万を使い、劉琨を助けこれを撃ち白部を大破する。次に劉虎を攻め、その陣営を落とす。劉虎は西走し、朔方に逃れた。この功により、晋の懐帝は猗盧を大単于に進め、代公に封じた。劉琨はまた遣使を送り洛陽を救う援軍を求め、猗盧は歩騎2万を遣わしこれを助ける。この年、漢の劉淵が死んで、子の劉聰が立つ。311年、劉琨の牙門将の邢延は新興で叛き、劉聰を招き寄せる。猗盧は軍を遣わしてこれを討ち、劉聰を退走させる。312年、劉琨は遣使を送り劉聰、石勒を討伐する援軍を要請。猗盧は劉琨に忠義をもってこれに応じた。その間に、劉聰は子の劉粲を遣わして晋陽を襲い、劉琨の父母を殺しその城を占拠した。劉琨がこのことを報告すると、猗盧は大いに怒り、長子の六脩、桓帝(猗㐌)の子の普根及び衛雄范班姫澹等を前鋒として遣わし、猗盧は躬大衆20万を統べ後継となる。劉粲は懼れて輜重を焼き、攻囲を突破して遁走。縱騎はこれを追い、その将の劉儒劉豊簡令張平邢延を斬り、伏屍は数百里にもわたった。劉琨は拜謝に来て、猗盧は礼をもってこれをもてなした。この年、晋の雍州刺史の賈疋、京兆太守閻鼎らは、懐帝が劉聰に囚われたので、懐帝の兄の子の秦王司馬鄴(愍帝)を共立し太子とした。猗盧はふたたび戒厳、劉琨と与し更に大挙し勝つ。313年、盛楽城を北都とし、平城を南都とした。新たに小平城を築城し、長子の拓跋六脩に鎮守させ、南部を統領させた。315年、晋の愍帝は猗盧を進めて代王とし、代、常山の2郡に官属を置いた。ここに代国は百官を置き、刑法を定めるなど国家としての体制を整える。316年、猗盧は六修を召すが、六修が来ないので。猗盧は怒り、これを討つが、逆に敗れてしまう。猗盧は民間にまぎれて逃亡するが、遂に捕まって殺されてしまう。そのころ普根は外境を守っていたが、このことを聞いて駆けつけ、六修を攻め滅す。猗盧の配下だった衛雄、姫澹は晋人及び烏丸人300餘家を率い、劉琨の子の劉遵につき従い并州に南奔した。普根は即位するが数カ月で卒去。普根の子(哀帝)が生れたので、桓帝の后(祁氏)はこれを立てる。その冬、普根の子も卒去し、立て続けに代王が卒去した。

穆帝、平文帝、哀帝が相次いで亡くなると、思帝の子の鬱律が即位した。318年、匈奴鉄弗部の劉虎は朔方に拠り、代国西部に侵攻してきた。拓跋鬱律はこれを大破し、劉虎を敗走させる。劉虎の従弟の劉路孤は部落を率いて帰順してきたので、鬱律は娘をやった。このころの代国は、西は烏孫の故地を兼ね、東は勿吉以西を併吞し、騎射ができる将は百万にのぼったという。この年、漢の劉聰が死んで、子の劉粲が立つが、在位1ヵ月でその外戚の靳准に殺されたので、劉淵の族子の劉曜が立った。劉曜は遣使を送り代国に和親をはかったが、鬱律は晋の湣帝が劉曜に殺されたと聞いていたので、受け入れなかった。319年石勒は自ら趙王と称し、代国と和親をはかり、兄弟となることを請うた。しかし、鬱律は遣使を斬り捨て断絶する。321年東晋元帝が遣使を送り爵位を与えるが、鬱律はこれを断った。桓帝の后(祁氏)は、鬱律が衆の心を得ているのに対し、自分の子に利がないのを恐れて、鬱律と諸大人を殺し、死者は数10人に及んだ。

代の衰退

代国と周辺国

321年、平文帝鬱律が祁氏に殺されると、祁氏の子の拓跋賀傉が即位するが、まだ自ら政務ができないので代わりに祁氏が政務を執り行った(なので当時は女国と呼ばれていた)。324年、ようやく拓跋賀傉が親政を始めるが、諸大人はまったく帰服しないので、拓跋賀傉は、東木根山に遷都した。325年、拓跋賀傉が卒去し、代わって弟の紇那が立った。

327年羯族の石勒は石虎を遣わし五千騎を率い辺部に来寇、代王の拓跋紇那はこれを句注陘北で防ぐが、不利となり、大寧に遷都する。時に舅の拓跋翳槐賀蘭部にいた。拓跋紇那は遣使を送り救援を求めるが、賀蘭部の帥の藹頭は、救援の派遣をしなかった。拓跋紇那は怒り、宇文部並びに軍勢を召して藹頭を撃つが、宇文の衆は敗け、拓跋紇那は大寧に帰る。329年、拓跋紇那は宇文部へ亡命。賀蘭部及び諸部大人は、拓跋翳槐を共立し、翳槐は代王となる。石勒は遣使を送り和親を求め、拓跋翳槐は弟の拓跋什翼犍襄国に遣わした。335年、藹頭は臣職を修めず、拓跋翳槐が召してこれを殺したので、国人はふたたびふた心を持つ。拓跋紇那は宇文部から戻ったので、諸部大人はふたたびこれを奉じ、拓跋紇那は復位した。拓跋翳槐は鄴へ亡命し、337年、石虎は将の李穆を遣わし5千騎を率い拓跋翳槐を大寧で引き入れる。国人の六千餘落は拓跋紇那に叛き、拓跋紇那は慕容部へ亡命。拓跋翳槐は復位した。新しく故城の東南10里に在る盛楽城に遷都した。復位1年で卒去。弟の拓跋什翼犍が後を継いだ。

什翼犍の治世と滅亡

代国と周辺国

拓跋什翼犍の即位に際して、後趙の人質となっている拓跋什翼犍の返還が困難であるとの理由で群臣の反対があり高涼王拓跋孤を推挙する動きがあったが、拓跋孤が鄴に向かい、自らが人質となることを申し出て什翼犍の返還を迫った。すると、石虎は拓跋孤の気概に感心し2とも返還した。こうして338年、繁畤(現在の山西省混沌県)にて拓跋什翼犍は即位、元号を建国とした。339年、百官を設け国家体制を整える。またふたたび代国を南北に分割しそれぞれに大人を置いた。北部を弟の拓跋孤が監督し、南部を庶長子の拓跋寔君が監督した。この年、慕容部の大人慕容皝の妹を娶り后とする。340年春、雲中郡の盛楽宮(現在の内蒙古自治区和林格爾県)に遷都。341年秋9月、盛楽城を故城の南八里に築城。后の慕容氏が卒去。冬10月、匈奴鉄弗部の劉虎は西の国境を侵す。什翼犍は軍を派遣し討伐、これを大破する。劉虎が没すると、子の劉務桓が帰順してきたので、什翼犍は娘をやった。344年、慕容皝の娘を迎えて后とする。355年、太后の王氏が卒去する。360年夏6月、后の慕容氏が卒去。363年冬10月、高車を討ち、これを大破する。364年、冬11月、没歌部を討ち、これを破る。365年春1月、鉄弗部の劉衛辰が謀反。什翼犍はこれを討ち、劉衛辰は遁走する。367年冬10月、什翼犍は劉衛辰を征伐。劉衛辰は宗族とともに西走する。370年冬11月、高車を征し、これを大破。371年春、長孫斤が謀反を起こす。太子の拓跋寔は傷を負い、それがもとで夏5月に卒去した。374年、什翼犍は劉衛辰を征し、劉衛辰は南走する。376年、劉衛辰の要請で、前秦苻堅は大司馬の苻洛を遣わし20万の兵と朱彤、張蚝、鄧羌等の諸道を率いて来寇させ、南の国境を侵す。冬11月、白部、独孤部はこれを防ぐが、敗北。南部大人の劉庫仁は雲中郡に敗走。什翼犍は再び庫仁を遣わし騎兵10万を率いて石子嶺で反撃させるが敗北。什翼犍は病にかかり、軍を率いて陽山の北に逃れた。高車雑胡が相次いで反乱。12月、什翼犍は雲中に戻るが。拓跋孤の子拓跋斤にそそのかされた庶長子の拓跋寔君は諸弟と什翼犍を殺してしまう(『宋書』では前秦に捕らえられた)。これにより代国は、前秦の支配下に入り、河を境に東西に分割され、東を劉庫仁が、西を劉衛辰が統治し、各々苻堅から官爵を拝受した。

官職

拓跋什翼犍は即位した際、百官を置いた。おもな官職は晋朝と同じである。[1]

  • 左右近侍職…定員なく、近親の者が選ばれる。
  • 内侍長…定員4名。のちの侍中散騎常侍に当たる。
  • 北部大人…最初は拓跋孤が監督。のちに劉眷などが担当。
  • 南部大人…最初は拓跋寔君が監督。のちに劉庫仁などが担当。

歴代の代王

代王は、第6代紇那と第7代翳槐がそれぞれ廃位ののち復位しているので、8主で10代を数える。最後の第8代什翼犍の孫である珪も前秦が弱体化すると自立して代王を称しているが、こちらは通常初代魏王(後の北魏皇帝)として数え、歴代の代王には含めない。なおそれぞれの廟号・諡号は、いずれもその珪が北魏皇帝として即位した後に先祖に追諡したもので、「帝」とあっても存命中の実際の称号は「王」である。

姓・諱 廟号・諡号 在位 続柄
拓跋猗㐌   桓帝
1 拓跋猗盧   穆帝 315年 – 316年 桓帝の弟
2 拓跋普根   文平帝 316年 桓帝の長男
3 (不詳)   哀帝 316年 文平帝の子、夭折
4 拓跋鬱律 太祖平文帝 317年 – 321年 穆帝の弟、拓跋弗の子
祁氏 321年 – 324年(大后監国 桓帝の后(文平帝・恵帝・煬帝の母)
5 拓跋賀傉   恵帝 321年 – 325年 桓帝の次男
6 拓跋紇那   煬帝 325年 – 329年(廃)、335年 – 337年 桓帝の三男
7 拓跋翳槐   烈帝 329年 – 335年(廃)、337年 – 338年 太祖平文帝の長男
8 拓跋什翼犍 高祖昭成帝 338年 – 376年(前秦に滅ぼされる) 太祖平文帝の次男
拓跋珪 太祖道武帝 386年(代王を称して自立、同年魏王を称す) 高祖昭成帝の子、拓跋寔の子

年号

脚注

  1. ^ 『魏書』(志第二十 官氏志)

参考文献

  • 魏書』(帝紀第一、官氏志)
  • 岡崎文夫『魏晋南北朝通史 内編』平凡社〈東洋文庫506〉、1989 ISBN 4-582-80506-X(原著『魏晋南北朝通史』弘文堂書房、1932)

関連項目