上杉房実

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上杉 房実(うえすぎ ふさざね、嘉吉3年(1443年[要出典] - 永正5年(1508年[要出典]?)は、室町時代の武将、連歌作者。名は上条房実ともいう。上杉氏一族で越後上杉家の分家である上条上杉家出身。上杉清方の子で、房定の弟。上杉定実(後に越後守護、但し定実の実父については異説あり)、上条定明積翠院伊達尚宗室)、上条定憲らの父(但し、定憲は孫であるともされる)。官位は淡路。号は蓮器、朝日寺。法号玄澄。

「天文上杉・長尾系図」では刈羽郡上条の地を治める上条上杉家を継いだとされるが確証はない[1]幕府の信頼厚く、東国の要として活躍した房定の守護時代にはより多くの文化人や公家たちが越後を訪れ、越後の文化は大いに発展した。房実も連歌を嗜み、長享2年(1488年)越後を訪れた万里集九を迎えて詩歌の会を催している。明応4年(1495年)に成立した新撰菟玖波集には玄澄法師の名で6句入集している[2]。また尊応流、二楽流の流れをくむ能書家として「筆跡流儀系図」「流儀集」「古筆流儀別」に名が挙げられている[3]

脚注

  1. ^ 明応5年(1496年)閏2月に発給された足利義稙御内書の宛名に「上杉播磨入道」とあり、長禄4年(1460年)、上杉房定の注進により足利義政から戦功を褒賞された「上杉播磨守」と同一人物と推定されている。その官途から享禄天文期の上条家当主・上条定憲の近親者と思われ、家永遵嗣は明応3年(1494年)の房定の死去後、長享2年(1488年)に元服したばかりの若き守護上杉房能長尾能景とともに補佐した人物としている(家永遵嗣「明応二年の政変と北条早雲の人脈」『成城大学短期大学部紀要』27、1996年)。家永はこの「上杉播磨入道」を房実に比定しているが、森田真一や黒田基樹は「浅羽本上杉系図」で房実の長兄とされている上杉定顕に比定し、上条家の家督は定顕が継いだとしている(森田真一「上条上杉定憲と享禄・天文の乱」『新潟史学』第46号、2001年・「戦国の動乱」『笹神村史 通史編』中世第四章、笹神村、2004年)(黒田基樹「上杉清方の基礎的研究」黒田編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一一巻 関東管領上杉氏』、戒光祥出版、2013年)。一方、片桐昭彦は系図類に見える定顕の官途は兵庫介、兵庫頭であり、上条上杉氏には系図に見られない人物が多いことも含め、検討の余地があるとしている。(『上越市史 通史編2 中世』243頁)
  2. ^ 『新撰莵玖波集作者部類』
  3. ^ 小松茂美『日本書流全史』第一巻、講談社、1970年

参考文献