三無事件
三無事件(さんむじけん)は、1961年(昭和36年)12月12日に日本で発覚したクーデター未遂事件。川南工業社長の川南豊作を首謀者として[1]旧陸軍出身者らが[2]日本政府の要人の暗殺を計画し[1]、未遂に終わり警視庁により逮捕された[2]。発生当初は国史会事件と称された[3]。
破壊活動防止法が初めて適用され[2]、有罪判決が下された[2]。
1961年12月12日に警視庁等が32箇所を捜索、川南豊作他13人を逮捕し、日本刀8振、ライフル銃2丁、防毒マスクなどを押収した[1]。
三無とは無税・無失業・無戦争の「三無」という主張である[2]。無気力・無関心・無責任の1970年代の若者気質をさした「三無主義」とは関係がない[要出典]。1970年の三島事件の先駆となった[要出典]。
関与者
年齢は全て当時 直接の容疑は川南らは殺人予備、川下は銃刀法違反[1]
- 川南豊作 (59)[要出典] - 首謀者 元川南工業代表[1]
- 桜井徳太郎 (64)[要出典] - 元陸軍少将[1]
- 三上卓 (53)[要出典] - 元海軍中尉[要出典]。五・一五事件に関与[1]
- 小池一臣 (34)[要出典] - 陸軍士官学校第60期[1]、「国史会」主宰者[1]
- 篠田英悟 (38)[要出典] - 日本学生改新会会長[1]、元菊旗同志会中央委員[1]
- 川下佳節 (25)[要出典] - 三無塾塾長[1]、のち市川市議会議長。2006年12月死去
- 池口恵観 (25) - 事件当時・鮫島正純(事件後母方の姓に改姓)。馬場元治の秘書。2013年現在は鹿児島県の最福寺住職。
首謀者・主犯格者は揃って九州の出身とりわけ北部の者が多かった[要出典]。このことは護国団で独自のクーデター論を展開した小島玄之の論評などにおいて注目に値する点として捉えられた[要出典]。
三無塾の他、右翼団体の「菊旗同志会」が決起に参加する予定だった。
池口恵観の法廷での証言
事件への関与を認めた池口は検察側証人として出廷し、事件発覚の二ヶ月前の10月はじめに川南の紹介で衆議院議員・馬場元治の秘書になり、国会議事堂内の電源・通信機器の配置や警備員の数の調査を依頼されたこと、200人で国会を襲撃するに際しては議員秘書の池口が国会内部から突入のタイミングの合図を送る役割だった、と証言している。池口本人は関与の度合いが薄いとして不起訴、釈放されている。
三無事件を題材とした作品
- 大野芳『革命』(祥伝社、2001年) ISBN 4396631863
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l “衆議院会議録情報 第040回国会 本会議 第2号: 第2号 昭和36年12月14日”. 衆議院 (1961年12月14日). 2016年2月26日閲覧。
- ^ a b c d e “昭和毎日:三無事件”. 毎日新聞. 2013年10月20日閲覧。
- ^ “三無事件”. コトバンク. 2013年10月20日閲覧。
- ^ “第040回国会 法務委員会 第14号”. 衆議院 (1962年3月9日). 2013年10月21日閲覧。
外部リンク
- 発覚した暗殺計画(昭和36年12月20日) - 日本映画新社・朝日ニュース全国版No.858