三浦義澄

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三浦義澄
三浦義澄/『前賢故実』(江戸時代
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 大治2年(1127年
死没 正治2年1月23日1200年2月9日
別名 荒次郎、新介(仮名)
墓所 横須賀市大矢部 薬王寺(現清雲寺)
官位 三浦介相模守護
幕府 鎌倉幕府 十三人の合議制
主君 源頼朝頼家
氏族 桓武平氏良文流、三浦氏
父母 三浦義明秩父重綱の娘
兄弟 杉本義宗義澄大多和義久佐原義連
多々良義春長井義季杜重行
源義朝側室、畠山重能室、
金田頼次室、長江義景
正室:伊東祐親の娘
友澄義村重澄胤義、他
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三浦 義澄(みうら よしずみ)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将鎌倉幕府御家人桓武平氏の流れを汲む三浦氏の一族で、三浦介義明の次男。十三人の合議制の一人。

経歴

相模国三浦郡矢部郷の出身。具体的な時期は不明ながら、上総常澄加冠によって元服義澄と名乗ったとされる[1]

平治元年(1159年)の平治の乱では源義平に従うが、平家方に敗れて京都から郷里に落ち延びる。長寛2年(1164年)、兄・杉本義宗が39歳で亡くなり、それによって三浦氏の家督を継ぐ。

治承4年(1180年)、源頼朝石橋山の戦いで挙兵した際には悪天候のため参戦できず、引き返す途中で平家方の畠山重忠との間で衣笠城合戦となり、父・義明を討ち死にさせてしまう結果となったが、その後房総半島へ渡ってきた頼朝軍と合流し、のちに頼朝に帰伏した重忠らと共に鎌倉に入る。

この頃、平家側についていた妻の父である伊東祐親が捕らえられ、その身を預かる事となり、義澄は頼朝に祐親の事を許させるが、祐親は自分の娘と頼朝の間に出来た子を殺した事を恥じて自害してしまう。

義澄は千葉常胤上総広常土肥実平らと共に頼朝の宿老となり、その後も一ノ谷の戦い壇ノ浦の戦い奥州合戦に参戦して武功を挙げる。建久元年(1190年)に頼朝が上洛した際、右近衛大将拝賀の布衣侍7人の内に選ばれて参院の供奉をした[2]。さらに、これまでの勲功として頼朝に御家人10人の成功推挙が与えられた時、その1人に入ったが子の義村に賞を譲っている。

正治元年(1199年)、頼朝が死去した後には2代将軍・源頼家を補佐する十三人の合議制の一人となる。翌年、梶原景時の変梶原景時の鎌倉追放に加担し、梶原一族が討たれた3日後に病没。享年74。

関連項目

参考文献

  • 野口実 『中世東国武士団の研究』(高科書店、1994年)
  • 山野龍太郎 「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)) ISBN 978-4-7842-1620-8

脚注

  1. ^ 野口、1994年。 元服にあたっては、それまでの童名幼名)が廃されて、加冠役を勤める烏帽子親から仮名通称名)と実名)が与えられるが、その際にその実名の一字(偏諱)の付与がなされることが多く(山野龍太郎論文(山本、2012年、p.162)より)、常澄と義澄に共通する「澄」の字がそれにあたることが分かる(山野論文(山本、2012年、p.163~168)にも類似した例が紹介されている)。
  2. ^ 他の6名は、千葉胤正工藤祐経足立遠元後藤基清葛西清重、八田知重。
先代
三浦義明
三浦氏歴代当主
三浦介
次代
三浦義村