ラリー・ホームズ
基本情報 | |
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通称 |
イーストンの暗殺者 (The Easton Assassin) |
階級 | ヘビー級 |
身長 | 191cm |
リーチ | 206cm |
国籍 | アメリカ合衆国 |
誕生日 | 1949年11月3日(74歳) |
出身地 | ジョージア州カサバート |
スタイル | オーソドックス |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 75 |
勝ち | 69 |
KO勝ち | 44 |
敗け | 6 |
ラリー・ホームズ(Larry Holmes、1949年11月3日 - )は、1980年代に無敵を誇ったアメリカ合衆国出身の元プロボクサー。元WBC・IBF世界ヘビー級王者。ジョージア州カサバート出身。ニックネームは「イーストンの暗殺者」(The Easton Assassin)。
概要
モハメド・アリの引退後、マイク・タイソン台頭までの、1970年代末期から1980年代前半、いわゆる「ポスト・アリ」時代に最盛期を迎え、ヘビー級で長期政権を築いた。アリの人気にあやかろうとした面があり、アリのスタイルを模して軽快なフットワークをアピールしたが、実のところは中間距離での足を止めての強打、好機に見せる正確で強い「詰め」の連打が本来の持ち味であった。
下積み時代モハメド・アリのスパーリングパートナーを務めたことでボクシングの技術だけでなくマスコミ対応や多くのことを学んだと語っている。また学習能力が高いと自己分析しており、トレーナーはメンターのような師匠と弟子の関係ではなくアドバイザーに過ぎないという考え方を示している。従ってマイク・タイソンと養父でも会ったカス・ダマトとの関係性には選手の精神的な脆弱性がありうるとの見方を持っていた。
ホームズ自身の実力は折り紙付きで、防衛戦でも多くの好ファイトを見せたが、「アリのコピー」呼ばわりされたこと、加えて強力なライバルの不在から、人気は今一つであった。大きな注目を集めたのは引退から再起して衰えが顕著だったアリとの一戦、白人ホープのジェリー・クーニー戦、ロッキー・マルシアノと並ぶ49連勝がかかったマイケル・スピンクス戦くらいで、アリやクーニーには勝利するも憎まれ役と見られ、スピンクスには僅差で敗れるなど、運にも恵まれなかった。
来歴
貧しい家庭の12兄弟の4男として生まれる。父親は庭師として働いていたが、それだけでは大家族を養いきれず、生活保護を受けていた。家計が苦しかったことでラリー・ホームズは小学校を7年で中退して、洗車場で働いた。
- 19歳の時のボクシングを始める。
- 1972年、デュアン・ボビックに敗れ、ミュンヘンオリンピック代表の座を逸す。
- アマチュアの戦績19勝3敗でプロへ転向。
- 1973年3月21日、プロデビュー。その後、モハメド・アリ、ジョー・フレージャー、ジミー・ヤング、アーニー・シェイバースのスパーリングパートナーを務めた。
- 1978年3月25日、アーニー・シェイバースを12回判定で破り、WBC世界ヘビー級王座挑戦権を獲得。
- 1978年6月9日、ケン・ノートンに15回2-1の僅差で判定勝ちし、WBC世界ヘビー級王座を獲得。このタイトルは計17度防衛。
- 1980年10月2日、引退からカムバックしてきたモハメド・アリと対戦、10回終了TKOに破る。
- 1983年6月1日、USBA国際部(後のIBF)から初代世界ヘビー級王者に認定された[1]。
- 1983年11月25日、WBCはランキング1位のグレッグ・ペイジと対戦するよう指令を出すが、ファイトマネーの額に満足でなかったホームズはジョー・フレージャーの息子マービス・フレジャーと対戦した。
- 翌月、ホームズはWBC世界ヘビー級王座を放棄。その後IBF王座は3度防衛。
- 1985年9月22日、マイケル・スピンクスに15回判定負けし、IBF世界ヘビー級王座を失う。この試合は、リングマガジン アップセット・オブ・ザ・イヤーに選出された。
- 1986年4月19日、マイケル・スピンクスの持つIBF世界ヘビー級王座にダイレクトリマッチで挑戦するが、15回1-2の僅差判定負け。
- 1986年11月6日、37歳の時に1度目の引退を発表。
- 1988年1月22日、引退を撤回してマイク・タイソンの持つWBA・WBC・IBF世界ヘビー級王座に挑戦するが、4ラウンドKO負け。試合後、2度目の引退を発表。
- 1991年4月7日、引退を撤回して復帰。
- 1992年2月7日、レイ・マーサーを番狂わせで12回3-0の判定で破る。
- 1992年6月19日、イベンダー・ホリフィールドの持つWBA・WBC・IBF世界ヘビー級王座に挑戦するが、判定負け。この試合でコンタクトレンズ(ソフト)を着用していたことが試合終了直後に発覚。
- 1995年4月8日、オリバー・マッコールの持つWBC世界ヘビー級王座に挑戦するが、判定負け。
- 1997年1月24日、デンマークでブライアン・ニールセンに12回1-2の判定負け。
- 1999年1月23日、ジョージ・フォアマンとの対戦が決定するが、プロモーターが期限までに資金を集めきれなかったため、試合数週間前に中止となった。
- 2002年7月27日、エリック・エッシュと戦ったのが最後の試合となっている。
引退後
引退後は様々なビジネスを成功させて、2008年に故郷のイーストンで2件のレストラン、ナイトクラブ、バー、トレーニング施設、事務所を設立。
2013年3月、高血糖で2度入院する[2]。
2014年、自宅を含む、イーストンの2件のレストラン、ナイトクラブ、バー、トレーニング施設、事務所等の全ての不動産を売却した[3][4]。
脚注
- ^ ボクシング・マガジン(ベースボール・マガジン社刊)、1983年8月号、92頁
- ^ “Larry Holmes hospitalized with high blood sugar”. lehighvalleylive.com (2013年3月14日). 2014年7月29日閲覧。
- ^ “Larry Holmes' Palmer Township estate just one holding of his for sale”. lehighvalleylive.com (2013年3月29日). 2014年7月29日閲覧。
- ^ “Larry Holmes' old boxing gym is now an Irish dance studio”. lehighvalleylive.com (2014年7月28日). 2014年7月29日閲覧。
関連項目
- 男子ボクサー一覧
- 世界ボクシング評議会(WBC)世界王者一覧
- 国際ボクシング連盟(IBF)世界王者一覧
- 国際ボクシング名誉の殿堂博物館
- 世界ボクシング殿堂
- リングマガジン ファイター・オブ・ザ・イヤー - 1982年選出
外部リンク
- ラリー・ホームズの戦績 - BoxRec(英語)
前王者 ケン・ノートン |
第8代WBC世界ヘビー級王者 1978年6月9日 - 1983年12月11日(剥奪) |
次王者 ティム・ウィザスプーン |
前王者 N/A |
初代IBF世界ヘビー級王者 1983年6月1日 - 1985年9月22日 |
次王者 マイケル・スピンクス |