ララカオンの戦い

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ララカオンの戦い
アラブ・東ローマ戦争
Medieval miniature showing two opposing cavalry groups colliding, with casualties in the middle
ララカオンの戦いで東ローマ軍とアラブ軍が衝突する様子を描いた12世紀のマドリード・スキュリチェス英語版の細密画
863年9月3日
場所ララカオン川(小アジア
結果 東ローマ帝国の勝利
衝突した勢力
アッバース朝
東ローマ帝国
指揮官

ララカオンの戦い(ララオカンのたたかい、ギリシア語: Μάχη τοῦ Λαλακάοντος)(ポソンの戦いもしくはポルソンの戦いギリシア語: Μάχη τοῦ Πό(ρ)σωνος)とも呼ばれる)は、863年に現代のトルコ北部のララカオン川で東ローマ帝国小アジアへ侵攻したアラブ軍の間で起こった戦いである。アラブ軍はメリテネ(現代のマラティヤ)の領主のウマル・アル=アクタ英語版が率い、東ローマ軍は皇帝ミカエル3世の叔父のペトロナス英語版が率いていたが、アラブ側の史料では皇帝も戦いに参加していたと記されている。

ウマルは小アジアへの侵攻後に受けた東ローマ軍による最初の抵抗を逃れ、黒海に到達してアミソスを略奪した。これに対して東ローマ帝国は軍隊を動員し、ララカオン川付近でアラブ軍を包囲した。その後に起こった戦いは東ローマ軍の勝利とウマルの戦死という結果に終わり、さらには国境を越えた東ローマ軍の反攻も成功に終わった。これらの勝利は決定的なものであり、東ローマ帝国の国境地帯における主要な脅威は排除され、その後の100年にわたる東方での攻勢の時代の始まりを告げることになった。

東ローマ帝国の成功はもう一つの帰結をもたらした。東部辺境における絶え間ないアラブ側の圧力を退けたことで、東ローマ帝国は西方のブルガリアへの対応に集中できるようになり、西方へ移動した東ローマ軍の侵攻を受けたブルガリアは東ローマ帝国による布教を受け入れ、東方キリスト教世界に吸収されていった。また、この戦いは文化面でも影響を与え、東ローマやアラブの叙事詩や物語におけるさまざまなエピソードのモチーフにもなった。

背景:アラブと東ローマ帝国の国境紛争

7世紀のイスラーム教徒による急速な征服活動の結果、東ローマ帝国の領土は小アジア(アナトリア)、バルカン半島南部、そしてイタリアの一部に限定されるようになった。東ローマ帝国は初期のイスラーム国家の主要な異教徒の敵であり続けたため、アラブ人による小アジアへの襲撃は8世紀から9世紀にかけて続いた。これらの遠征はアラブ人勢力の辺境地帯の拠点からほぼ毎年行われ、イスラーム教徒のジハード(聖戦)の一環としてほとんど儀式的とも言える性格を帯びていた[1]

東ローマ帝国は7世紀から9世紀にかけて概ね守勢に立っており[2]、838年にはアモリオンアモリア朝の発祥地)が徹底的に破壊されるなど、壊滅的な敗北を喫する場合もあった[3]。しかし842年以降はアッバース朝によってもたらされていた軍事的脅威が徐々に弱まり、これと平行して東ローマ帝国の東部辺境に沿って半ば独立したアラブ人のアミールによる政権が台頭したが、この変化の結果として東ローマ帝国は次第に自ら行動を起こせるようになった[4]

850年代の間、東ローマ帝国にとって最も大きな脅威となったのはウマル・アル=アクタ英語版(在位:830年台 - 863年)が統治するメリテネのアミール領、アリー・ブン・ヤフヤー・アル=アルマニー英語版が統治するタルスース一帯のアッバース朝の辺境地域、カーリーカラー(ビザンツ帝国統治時代のテオドシオポリス、現代のエルズルム)のアミール領、そしてカルベアス英語版が率いるテフリケ英語版パウロ派英語版[注 1]の現地勢力であった[7][8]。とりわけメリテネはアンティトロス山脈英語版の西側に位置していたことからアナトリア高原へ直接アクセスすることが可能であり、東ローマ帝国にとっては大きな懸念材料であった。860年には東ローマ帝国にとって悲惨な結果を招くことになったこれらの領主による連合が成立し、その脅威を示した。ウマルとカルベアスは小アジアの深部まで襲撃し、相当な量の略奪品を持ち帰った。それから間もなくアリー・アル=アルマニーが率いるタルスースの軍隊による襲撃も始まった。そして最後にはシリアのアラブ海軍の攻撃によってテマ・キビュライオタイ英語版の首都であるアッタレイアが略奪された[8][9]

863年のアラブ軍の侵攻

9世紀中頃の小アジアビザンツ帝国の領土とアッバース朝と東ローマ帝国の国境地帯を示した地図。各テマ(軍管区)とクレイスラ(辺境地区)の領域も示されている。

ウマルは863年の夏の間にアッバース朝の将軍のジャアファル・ブン・ディーナール・アル=ハイヤート英語版が率いる軍隊と協力して再び攻撃に乗り出し、カッパドキアへの襲撃を成功させた。アラブ軍はキリキアの門英語版キリキアの低地の平野とアナトリア高原を結ぶトロス山脈の峠)を越えて東ローマ帝国の領内に入り、ティアナに近づくまで略奪を繰り返しながら行軍した[4][10][11]。ジャアファルの軍隊は途中で本国へ引き返したが、ウマルはジャアファルから小アジアへの進軍を続ける許可を得た。ウマルは自身が統治する領地の兵力の大部分を率いていたが、その正確な規模は不明である。同時代のイスラーム教徒の歴史家であるヤアクービー(897年没)はウマルの兵力を8,000人と記しているが、10世紀の東ローマ帝国の歴史家であるイオシフ・ゲネシオス英語版テオファネス・コンティヌアトス英語版の記録ではアラブ軍の規模は40,000人にまで膨れ上がっている。東ローマの学者のジョン・ハルドン英語版によれば、前者の数字がより現実に近く、アラブ軍の規模は15,000人から20,000人の範囲であったと推定している[10][12][13]。現代の複数の歴史家がカルベアスの率いるパウロ派の部隊も恐らく参加していたと考えているが、これについての明確な証拠はない[14][15]

東ローマ皇帝ミカエル3世(在位:842年 - 867年)はアラブ軍の襲撃に対して反撃に出るために軍隊を招集し、アラブ側の史料では両軍はマルジュ・アル=ウスクフ(「主教の牧草地」を意味する)として知られるナジアンゾス英語版の北に位置するマラコペア英語版に近い高原で戦いに臨んだ[14][16]。この戦いは凄惨なものとなり、両軍とも多くの死傷者を出した。バグダードでアッバース朝の役人を務めていた同時代の歴史家のタバリー(923年没)によれば、ウマルの軍隊の中で生き残ったのはわずかに1,000人であった。それでもなおアラブ軍は東ローマ軍から逃れ、テマ・アルメニアコン英語版の地に入って襲撃を続けながら北上し、黒海に到達して港湾都市のアミソスを略奪した。ビザンツ帝国の複数の歴史家が伝えるところによれば、ウマルは海が進軍を阻んだことに激怒し、海に鞭打つように命じた。しかし、現代の学者はほぼ間違いなく古代のペルシア戦争の時のクセルクセス1世に関する同様のエピソードに着想を得た創作であろうと考えている[16][17][18]

戦闘

アミソスの陥落を知ったミカエル3世はドメスティコス・トーン・スコローン英語版スコライ軍団英語版司令長官で東ローマ帝国の野戦軍の総司令官)のペトロナス英語版テマ・ブーケラリオン英語版ストラテゴス英語版(長官)のナサル英語版の下に(タバリーによれば)50,000人の大軍を編成した。タバリーは皇帝が自らこれらの軍隊を指揮したと記しているが、東ローマ側の史料にこれを裏付ける記録は見られない。後のマケドニア朝時代の歴史家の著作におけるミカエル3世に対する偏見を考慮すると、この情報は意図的に省かれた可能性がある[14][19][20]。東ローマ軍はアジア側とヨーロッパ側の双方の地域から集結し、三つの方角からアラブ軍へ接近した。北方の部隊は北東方面のテマ(軍管区)であるテマ・アルメニアコン、テマ・ブーケラリオン、テマ・コローネイアス英語版、およびテマ・パフラゴニアス英語版、南方の部隊(恐らくマルジュ・アル=ウスクフで戦い、その後にアラブ軍を追跡していた部隊)はテマ・アナトリコンテマ・オプシキオン英語版テマ・カッパドキアス英語版、およびセレウケイアス英語版カルシアノン英語版の各クレイスラ(辺境地区)、そしてペトロナスが率いる西方の部隊はトラキアテマ・マケドニアス英語版テマ・トラケース英語版、および首都のタグマタ(常備軍)から構成されていた[17][21][22]

これらの広範囲に分かれた部隊をまとめることの困難さにもかかわらず、東ローマ軍は9月2日に各部隊が合流し、ララカオン川に近いポソン(Πόσων)もしくはポルソン(Πόρσων)と呼ばれる場所でウマルの小規模な軍隊を包囲した[15][23]。川と戦場の正確な場所は明らかではないものの、ほとんどの学者はアミソスの南東へ約130キロメートルに位置するハリュス川の近くであったと考えている[14][17]。東ローマ軍の接近によって、ウマルとその兵士に残された唯一の逃げ道は戦略的な場所に位置する一つの丘のみとなった。両軍は夜間にその丘の占領を試みたが、東ローマ側が奪取に成功した[15][17][24]。そして翌日の9月3日にウマルはペトロナスが陣取る西側の敵陣へ全軍を投入し、突破口を開こうとした。しかしペトロナスの兵士はその場を固守し、他の二つの東ローマ軍の接近と無防備となっていたアラブ軍の後方と側面に東ローマ軍が攻撃を加える時間的余裕を与えることになった[17][25][26]。結局アラブ軍の大半とウマルは戦死し、軍隊は完全に敗走した。パウロ派の指導者であるカルベアスが戦闘に参加していたかどうかははっきりとしていないものの、同じ年に死亡したことが記録に残っており、戦闘の犠牲者の中にカルベアスも含まれていた可能性がある[23][27]

アラブ軍はウマルの息子だけが小規模な部隊を率いて戦場から離脱し、南方のカルシアノンの国境地帯へ逃亡した。しかし、カルシアノンのクレイスラルケス(辺境地区の軍司令官)であるマカイラスに追われ、最終的に敗れて多くの配下の兵士とともに捕らえられた[23][28]

戦闘の余波と政治的影響

ララカオンの戦いとその後の軍事作戦の成功によって東ローマ帝国ブルガリアに戦力を集中させることが可能になり、ブルガリアのキリスト教化にも成功することになった。画像はブルガリア人の洗礼の様子を描いた『マナッセスの年代記英語版』の14世紀の写本。

東ローマ帝国はこの勝利に乗じて迅速に次の行動を起こした。東ローマ軍はアラブ人が支配するアルメニア英語版へ侵攻し、当時タルスースから転任していたアルメニア総督のアリー・アル=アルマニーを同年10月か11月に破って殺害した[29][30]。こうして東ローマ帝国はわずかに一回の遠征の期間中に東部国境に存在する最も危険な三つの敵対勢力を排除した[31]。これらの成功は決定的なものであり、パウロ派の独立勢力は878年までに滅ぼされ、メリテネのアミール領も934年に征服された。ララカオンにおける東ローマ帝国の勝利はこの地域の戦略的なバランスを変え、東ローマ帝国による東方での100年にわたる攻勢の開始を告げるものになった[2][32][33]

これらの勝利の重要性は当時においても見過ごされることはなかった。東ローマ帝国は25年前のアモリオンの破壊に対する復讐として勝利を歓呼で迎え、勝利を収めた将軍たちはコンスタンティノープルでの凱旋式が認められ、特別な祝賀式や礼拝が執り行われた[29][34]。ペトロナスは宮廷における高位の称号であるマギストロス英語版の称号を受け、カルシアノンのクレイスラは完全なテマに昇格した[29][31]。一方でタバリーは、「イスラームの強力な守護者であり、両者が奉仕した辺境地域で多大な賞賛を生んだ偉大な勇士」であるウマルとアリー・アル=アルマニーの訃報を受け、バグダードや他の都市で悲しみの声があふれ、暴動や略奪の発生に至ったことを伝えている。そしてジハードのために国境に民間の寄付や志願兵が集まり始めたが、アッバース朝内部で混乱が続いていた英語版ため、タバリーは「当時の中央政府には自らの責任の下でビザンツ帝国へ軍隊を派遣する用意がなかった」と書き記している[35]

東方の脅威が取り除かれ、東ローマ帝国は自信の深めたことで西方においても好機が到来した。その西方ではブルガリアを統治するボリス1世(在位:852年 - 889年)が自身の改宗と領民のキリスト教化のためにローマ教皇東フランク王ルートヴィヒ2世(在位:843年 - 876年)の両者と交渉していた。しかし、東ローマ帝国はローマ教皇の影響力がコンスタンティノープルの目の前まで広がる可能性を座視しようとはしなかった。勝利した東方の軍団はヨーロッパへ移動するとともに864年にブルガリアへ侵攻し、軍事力を誇示してブルガリアの支配者に東ローマ帝国の布教者を受け入れるように説得した。最終的にボリス1世は洗礼を受け、東ローマ帝国の皇帝に敬意を表してミハイルと名乗った。そしてブルガリアのキリスト教化英語版が始まり、ブルガリアは東ローマ帝国の影響を受けた東方キリスト教世界に吸収されていった[31][34][36]

文化的影響

フランスの東ローマ学者のアンリ・グレゴワール英語版によれば、ララカオンの戦いで頂点に達したアラブに対する東ローマ帝国の成功は、現存する最古のアクリティカ歌謡英語版(東ローマ帝国辺境守備兵の叙事詩)の一つである『アルムリスの歌英語版』にインスピレーションを与え、詩の名前の由来となっている主人公(若き東ローマの戦士アルムリス)は皇帝ミカエル3世から着想を得ている[37]。また、ディゲネス・アクリタスをめぐる東ローマの叙事詩群におけるある戦いでは、主人公がマラコペア付近でアラブ軍を包囲することから、ララカオンでの出来事を想起させるものになっている[38][39]。さらにこの戦いに関する強い影響は、アラブや後の時代のトルコにおけるバッタール・ガーズィー英語版をめぐる叙事詩や『千夜一夜物語』の一部のエピソードにも見出すことができる[40]

脚注

注釈

  1. ^ パウロ派は7世紀にアルメニアで成立した中世のキリスト教の一派であり[5]、843年に起こったミカエル3世の母親で摂政のテオドラ英語版による迫害を逃れ、テフリケの町を建設して独立した勢力を築いていた[6]

出典

  1. ^ El-Cheikh 2004, pp. 83–84.
  2. ^ a b El-Cheikh 2004, p. 162.
  3. ^ Treadgold 1997, p. 441.
  4. ^ a b Haldon 2001, p. 83.
  5. ^ Fine 1991, p. 173.
  6. ^ Makripoulias 2007, § 2.2.
  7. ^ Treadgold 1997, p. 451.
  8. ^ a b Whittow 1996, p. 310.
  9. ^ Vasiliev 1935, pp. 240–246.
  10. ^ a b Huxley 1975, p. 448.
  11. ^ Vasiliev 1935, p. 249.
  12. ^ Haldon 2001, pp. 83–84.
  13. ^ Vasiliev 1935, pp. 249–250.
  14. ^ a b c d Kiapidou 2003, § 1.
  15. ^ a b c Jenkins 1987, p. 162.
  16. ^ a b Huxley 1975, pp. 448–449.
  17. ^ a b c d e Haldon 2001, p. 84.
  18. ^ Vasiliev 1935, pp. 250–251.
  19. ^ Huxley 1975, pp. 443–445, 449.
  20. ^ Vasiliev 1935, pp. 251–252.
  21. ^ Huxley 1975, p. 445.
  22. ^ Vasiliev 1935, p. 253.
  23. ^ a b c Kiapidou 2003, § 2.
  24. ^ Vasiliev 1935, p. 254.
  25. ^ Jenkins 1987, pp. 162–163.
  26. ^ Vasiliev 1935, pp. 254–255.
  27. ^ Vasiliev 1935, p. 256.
  28. ^ Vasiliev 1935, pp. 255–256.
  29. ^ a b c Kiapidou 2003, § 3.
  30. ^ Whittow 1996, p. 311.
  31. ^ a b c Treadgold 1997, p. 452.
  32. ^ Whittow 1996, p. 311–317.
  33. ^ Makripoulias 2007, § 2.4.
  34. ^ a b Jenkins 1987, p. 163.
  35. ^ Saliba 1985, pp. 10–12.
  36. ^ Whittow 1996, pp. 282–284.
  37. ^ Beck 1971, p. 54.
  38. ^ Vasiliev 1935, pp. 225–226 (note 2).
  39. ^ Huxley 1975, pp. 447–448.
  40. ^ Vasiliev 1935, p. 21.

参考文献