マンスール・アリー

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アル=マンスール・アリーアラビア語: الملك المنصور علي‎ al-Malik al-Manṣūr ‘Alī)は、マムルーク朝バフリー・マムルーク朝)のスルターン(在位:1257年 - 1259年)。第2代スルターン・イッズッディーン・アイバクの子。母はアイバクの先妻であり、アイバクとの離婚を強いられた[1]

アイバクが後妻のシャジャル・アッ=ドゥッルによって暗殺され、さらにシャジャル・アッ=ドゥッルがマンスール・アリーの生母の命令によって殺害されると、スルターン位の世襲の慣習が存在しないマムルーク朝は混乱をきたす[1]。正統な継承者が選出されるまでの間、15歳のマンスール・アリーが暫定的にスルターンに即位し、将軍のムザッファル・クトゥズが執権と総司令官を兼任した[1]

1258年アッバース朝の滅亡後にアラブ世界モンゴル帝国の侵攻という難局に直面する[2]。「若年のスルターンに難局に対処する能力は無く、確固たる信念を持つ人物をスルターンとするべきである」と主張するクトゥズにより、マンスール・アリーは廃位される[2]。マンスール・アリーは母と弟ともに捕らえられ、1259年11月にクトゥズがスルターンに即位した[3]

マンスールは家族とともにダミエッタに移送され、後にコンスタンティノープルに送られた[4]

脚注

  1. ^ a b c 大原『エジプト マムルーク王朝』、17頁
  2. ^ a b 大原『エジプト マムルーク王朝』、18-19頁
  3. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、311頁
  4. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、312頁

参考文献

  • 大原与一郎『エジプト マムルーク王朝』(近藤出版社, 1976年10月)
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1973年6月)