フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(Federico da Montefeltro, 1422年6月7日 - 1482年9月10日)はイタリア・ルネサンス期のウルビーノ公国の君主である。傭兵隊長として活躍する一方、周囲に多くの文化人を集め、ウルビーノ宮廷に優雅なルネサンス文化を栄えさせた。フェデリーコ3世とも。
フェデリーコは1444年にウルビーノ伯を継いだ(のち1474年にウルビーノ公に陞爵した)。ウルビーノ自体は小国であり、軍人として教皇領、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェなどの傭兵隊長として活躍し、一度も負けたことのない名将として名を馳せていた。領国支配でも寛容であり、貧窮の者を助け、住民の声をよく聴いたため、すべての住民に慕われたという。
槍試合で片目を失い、そのためピエロ・デッラ・フランチェスカによる有名な作品を初めとして、ほとんどの肖像画が横顔で描かれている。
今日に名を残すのは、フェデリーコ在位当時の文化遺産やウルビーノ宮廷に集まった多くの文化人のためである。フェデリーコはアリストテレスやリウィウス、プルタルコスなどの古典文芸を愛読し、各地から写本を系統的に収集した。その蔵書はバチカン図書館をしのぐともいわれた。ブルクハルトは、ウルビーノの宮廷が全ヨーロッパで最も洗練されていたと賞賛している。
後継者
フェデリーコの跡を子のグイドバルド(1472年 - 1508年)が継ぐが、病弱であり、1502年にチェーザレ・ボルジアの教皇軍が侵攻すると亡命した。その後、マントヴァに滞在し、チェーザレの失脚後にウルビーノ公として復帰した。グイドバルドの宮廷はバルダッサーレ・カスティリオーネの『宮廷人』の舞台としても知られる。
子女
1437年にメルカテッロ・ドゥランテ領主バルトロメオ・ブランカレオーニの娘ジェンティーレ(1457年没)と結婚したが、子はいなかった。
1460年にペーザロ伯アレッサンドロ・スフォルツァの娘バッティスタ(1446年 - 1472年)と結婚、以下の子女をもうけた。
- グイドバルド(1472年 - 1508年) - ウルビーノ公
- エリザベッタ(1461年 - 1510年) - 1475年にリミニ領主ロベルト・マラテスタと結婚
- ジョヴァンナ - 1474年にセニガッリア領主ジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレと結婚、後のウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世の母
- アグネシーナ - 1474年にマリーノ領主ファブリツィオ・コロンナと結婚
- コスタンツァ - サレルノ侯アントネッロ・サンセヴェリーノと結婚
- ヴィオランテ - ガレオット・マラテスタと結婚
- キアラ - 修道女
また、以下の庶子がいる。
- ボンコンテ(1458年没)
- アントーニオ - エミリア・ピア・ダ・カルピと結婚
- ベルナルディーノ(1458年没)
- ジェンティーレ - サンターガタ領主アゴスティーノ・フレゴーソと結婚
関連項目
外部リンク
参考文献
- Dennistoun, James, Memoirs of the Dukes of Urbino, illustrating the arms, arts & literature of Italy, 1440-1630, Vol.1, London Lane, 1909.