バルダッサーレ・カスティリオーネ

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バルダッサーレ・カスティリオーネ(ラファエロ)による

バルダッサーレ・カスティリオーネ(Baldassare Castiglione 1478年12月6日 - 1529年2月2日)はイタリアルネサンス期の外交官、作家で、『宮廷人』の著作で知られる。同書は長くヨーロッパ上流階級にとっての模範書とされた。

マントヴァ近郊カザーティコ(現在のマルカリーア)出身。父はカスティリオーネ伯であった。ミラノに出て人文主義的な教養を学ぶ。ミラノ公ロドヴィーコ・イル・モーロに仕え、イル・モーロが失脚後、1503年マントヴァに移り、1504年ウルビーノの宮廷に仕える。ウルビーノでは各国への外交使節も務める。ウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロの妻、エリザベッタ・ゴンザーガに気に入られ、彼女を讃える詩を書くなどした。主にこの時代の経験が『宮廷人』のもとになっている。

1516年ウルビーノがメディチ家の教皇レオ10世に攻撃されたのち、マントヴァに移り、マントヴァ公フェデリーコに仕える。その後、ローマに使節として赴任し、メディチ家の教皇クレメンス7世にも仕えるようになる。教皇庁のスペイン大使としてカール5世の宮廷に赴くが、1527年ローマが神聖ローマ帝国・スペインの軍隊によって壊滅状態になると(ローマ略奪)、教皇庁内にカスティリオーネの責任を追及する声が上がった。この心労のためか健康を害し1529年、トレドで死去。

宮廷人[編集]

『宮廷人』(Il libro del cortegiano)はカスティリオーネの主著で1528年、ヴェネツィアで出版された。上流階級の社交術や教養を説いた書として、ヨーロッパでは長く教養人の規範とされていた。(廷臣論と訳されることもある)

1506年5月のウルビーノ宮廷の4日間を描写するという設定になっている。ウルビーノ公グイドバルドは病弱のため早く寝てしまうが、公妃エリザベッタを中心に、養子のフランチェスコ、メディチ家ジュリアーノ(教皇レオ10世の弟で、当時はフィレンツェを追放され亡命中)、プラトン学者のピエトロ・ベンボ、詩人のアレティーノら20人あまりが登場し(カスティリオーネ自身は登場しない)、宮廷人の要件は何か、宮廷人の備えるべき教養、宮廷の女性について、愛についてなどをテーマに様々な対話が繰り広げられる。

邦訳[編集]

  • 『カスティリオーネ 宮廷人』(東海大学古典叢書、清水純一岩倉具忠天野恵訳、東海大学出版会、1987年)、原文を併録