ジャン=ジョルジュ・オリオール

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Jean-George Auriol
ジャン=ジョルジュ・オリオール
本名 ジャン・ユオ (Jean Huyot)
生年月日 (1907-01-08) 1907年1月8日
没年月日 (1950-04-02) 1950年4月2日(43歳没)
出生地 フランスの旗 フランス共和国パリ
死没地 フランスの旗 フランス、パリ
国籍 フランスの旗 フランス
職業 プロデューサー脚本家
雑誌編集者批評家
活動期間 1926年 - 1950年
活動内容 『デュ・シネマ』『ラ・ルヴュ・デュ・シネマ』の編集発行
シネクラブオブジェクティフ49」の結成
呪われた映画祭」の開催
主な作品
乙女の湖
ディヴィーヌ
名誉なるカトリーヌ
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ジャン=ジョルジュ・オリオール(Jean-George Auriol, 1907年1月8日 - 1950年4月2日)は、フランスのプロデューサー脚本家雑誌編集者批評家である。ヌーヴェルヴァーグを生んだ雑誌『カイエ・デュ・シネマ』の母体となった雑誌『ラ・ルヴュ・デュ・シネマ』を創刊、戦後の復刊とともに「呪われた映画祭」開催に尽力したことで知られる。本名はジャン・ユオ(Jean Huyot)、表記「Jean-Georges Auriol」は誤り。

来歴・人物[編集]

先駆的人生[編集]

1907年(明治40年)1月8日、フランス・パリにジャン・ユオとして生まれる。

パリで、雑誌『デュ・シネマ Du cinéma』を創刊し、全29号を発行する。執筆者はオリオールのほかのちの映画監督・俳優のジャック・ブリュニュス、当時編集技師でのちの脚本家ルイ・シャヴァンス、のちに著述家となり放送界で活躍するポール・ジルソンら。同誌は、1928年(昭和3年)、オリオール21歳のとき、自らが編集長となり、『ラ・ルヴュ・デュ・シネマ』誌と改称する。1931年(昭和6年)には休刊する。

1933年(昭和8年)、26歳のときに、ピエール・ビヨン監督の映画『Le Fakir du Grand Hôtel』のダイアローグを書き、同年、マルセル・レルビエ監督によるのちの名優ジャン・マレーのデビュー作『L'Épervier』を脚色しダイアローグを書くことで、脚本家としてデビューしている。マルク・アレグレマックス・オフュルス、フランス時代のジャック・ターナーらの作品の脚本を執筆した。

1945年(昭和20年)に第二次世界大戦が終結、1946年(昭和21年)、39歳のとき、休刊していた『ラ・ルヴュ・デュ・シネマ』誌を、ジャック=ドニオル・ヴァルクローズとともに復刊、新創刊する。

1949年(昭和24年)、アンドレ・バザンアレクサンドル・アストリュックジャン・コクトーらとシネクラブオブジェクティフ49」を結成する。同年、ビアリッツで「第一回呪われた映画祭」を開催する。

1950年(昭和25年)4月2日、交通事故で死去した。満43歳没。

没後の影響[編集]

彼の死とともに『ラ・ルヴュ・デュ・シネマ』は廃刊し、「第二回呪われた映画祭」は開催されたが、オリオールの不在は求心力に欠けて終了し、「オブジェクティフ49」も崩壊となった。批評誌・映画祭・シネクラブのこの全面終了が、翌1951年(昭和26年)の『カイエ・デュ・シネマ』創刊からヌーヴェルヴァーグにむけての大きな運動への引き金となった。

『ラ・ルヴュ・デュ・シネマ』に執筆していたロッテ・アイスナーLotte H. Eisner)は、彼女の著書『L'Ecran Demoniaque デーモン的スクリーン』をバザン、アンリ・ラングロワとともにオリオールに捧げている。

ジャン=リュック・ゴダールの映画『ゴダールの映画史』には、「そうではないか、ジャン=ジョルジュ・オリオールよ…ジェイ・レダよ…ロッテ・アイスナーよ」と、『ラ・ルヴュ・デュ・シネマ』執筆者たちの名を呼びかけるシーンが存在する。[1]

フィルモグラフィ[編集]

脚本[編集]

関連事項[編集]

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  1. ^ 蓮實重彦ゴダールの「孤独」 - 『映画史』における「決算」の身振りをめぐってユリイカ(青土社、2002年5月号「特集=ゴダールの世紀」)の記述を参照。

外部リンク[編集]