グリゴリー・スィロエシュキン

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グリゴリー・セルゲーヴィッチ・スィロエシュキンロシア語: Григорий Сергеевич Сыроежкин1900年1月25日 - 1939年2月26日)は、ソビエト連邦の職業的諜報員、チェキスト。国家保安少佐。反ソ連運動に対する諜報活動において活躍するが、大粛清において嫌疑をかけられ、処刑された。

経歴

サラトフ県バラショフ郡ヴォルコヴォ村の農家に生まれる。1905年、家族と共にチフリスで暮らす。父は、主計官としてチフリス守備隊に勤務した。1915年、軍に志願したが、未成年者として家に帰された。青年時代、スポーツとサーカスに熱中し、手品と曲乗りを勉強し、ロシアの著名な格闘家I.ポドゥブヌイとI.ザイキンに弟子入りしたが、怪我のためあきらめざるを得なかった。その後、ザカフカーズ鉄道局で書記として働き、寄宿生学校の4学年の試験にパスした。

1918年、赤軍に志願し、キクヴィゼの第6師団の下で南部戦線で戦い、第9軍革命裁判所の警備司令として勤務した。1919年から共産党員。1920年春、ノヴォチェルカッスク・チェーカーに出向した後、カフカーズ戦線革命裁判所の取調官となる。1921年8月からモスクワの共和国革命裁判所の取調官。タンボフシチンでのアントーノフ派の反乱の鎮圧、サラトフ県バラショフ郡でのポポフ匪賊の殲滅に参加した。

1921年9月、ヴェーチェーカー特別課(1922年からOGPU防諜課)に異動。シンジカート-2作戦に参加し、ボリス・サヴィンコフを逮捕した。1925年9月、トレスト作戦に参加し、イギリスの諜報員、シドニー・ライリーを逮捕した。同年秋、北カフカーズ地方OGPU全権代表に異動し、作戦偵察支隊において、チェチェンの匪賊対策に関する特殊作戦に参加した。

1928年、元白軍将兵がソ連からの分離を目的として武装蜂起を準備していたヤクーチヤに派遣される。スィロエシュキンが行った防諜作戦のため、反乱の試みは失敗に終わった。東清鉄道紛争時、ブリヤーチヤの匪賊と戦う。1930年~1931年、モンゴルの反革命勢力の鎮圧に参加。1932年、白ロシアに派遣され、民族派地下組織対策を指導した。「白ロシア解放連合」撃滅に対して、金時計を授与された。

1933年からレニングラードで働き、ドイツ特務機関のスパイ・テロ組織の除去に関する防諜作戦に参加した。作戦の際、エージェントとの会見のため、ドイツ、ノルウェーフィンランドスウェーデンに出国した。フィンランドでは、クロンシュタットの反乱の指導者の1人、ステパン・ペトリチェンコと接触し、ソ・フィン国境の軍事情勢に関する詳細な情報を入手した。

スペイン内戦時、共和国軍第14軍団先任軍事顧問となり、フランコ軍後方での偵察・破壊工作作戦を実施した。1938年末、赤軍大粛清について独自の見解を述べたため、叙勲を口実にモスクワに召還される。

1939年2月8日、ポーランドのためのスパイ行為と反革命組織への参加の嫌疑で逮捕。2月26日、最高裁判所軍事部会により死刑を言い渡され、同日銃殺された。

1958年、名誉回復。

パーソナル

レーニン勲章、赤旗勲章、OGPU参事会からの名前入り武器、金時計を受賞。

参考文献

  • "Наум Эйтингон - карающий меч Сталина", Шарапов Э.П., С-Пб., "Нева", 2003

外部リンク