アント・ドロブニャク

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アント・ドロブニャク
名前
カタカナ アント・ドロブニャク
ラテン文字 Anto Drobnjak
基本情報
国籍 モンテネグロの旗 モンテネグロ
生年月日 (1968-09-21) 1968年9月21日(55歳)
出身地 モンテネグロ・ビイェロ・ポリェ
身長 185cm
体重 79kg
選手情報
ポジション FW
代表歴
1996-1998 ユーゴスラビアの旗 ユーゴスラビア 7 (4)
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

アント・ドロブニャク(Anto Drobnjak、1968年9月21日 - )は、ユーゴスラビア(現・モンテネグロ)出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションフォワード

来歴[編集]

選手時代[編集]

ユーゴスラビア1部リーグFKブドゥチノスト・ポドゴリツァ(現在はモンテネグロリーグ所属)でストライカーとして頭角を現し、名門レッドスター・ベオグラードに移籍した1992-93シーズンには22ゴールを挙げてユーゴスラビアリーグ得点王を獲得。

1994年からは活躍の舞台を国外に移し、フランス1部リーグSCバスティアへ移籍。ここでも長身を生かしたプレーと柔らかな足技で得点を量産し、当時のユーゴスラビア代表にも招集される。RCランス在籍時の1997-98シーズンにはポストプレーヤーとしてフランスリーグ優勝に大きく貢献した。

1998年、バスティアの監督であったフレデリック・アントネッティからの日本行きの誘いを受けてJリーグガンバ大阪に完全移籍で加入。同年にセリエAカリアリ・カルチョに移籍したパトリック・エムボマの後釜として期待された。1998年7月29日のヴェルディ川崎戦でJリーグ初ゴールを決め[1]、18試合8ゴールと[1]まずまずの成績を残した。翌1999年8月8日の横浜F・マリノス戦ではハットトリックを決めたが[2]、13試合4ゴールに終わり、1stステージ終了後に退団した。

その後はフランスへ戻り、主に2部リーグでプレーした。現役最後のクラブとなったFCマルティーグではガンバ大阪時代の同僚であるクロード・ダンブリーと再びチームメイトになったりもした。

内戦後は分裂していく祖国の中で旧ユーゴスラビアから、新ユーゴセルビア・モンテネグロモンテネグロと国籍を変えることになった。

現役引退後[編集]

2006年には古巣のブドゥチノストでスポーツディレクターに就任した。2011年からはブランコ・ブルノヴィッチen:Branko Brnović)監督の下で、モンテネグロ代表のコーチを務めた。

所属クラブ[編集]

指導歴[編集]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
ユーゴスラビア リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
1986-87 イェディンストヴォ ユーゴ3部 5 0
1987-88 24 7
1988-89 14 1
1989-90 27 19
1990-91 ブドゥチノスト プルヴァ 31 13
1991-92 17 9
1992-93 レッドスター プルヴァ 35 22
1993-94 29 17
フランス リーグ戦 F・リーグ杯フランス杯 期間通算
1994-95 バスティア リーグ・アン 31 12
1995-96 36 20
1996-97 33 18
1997-98 ランス 32 14
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1998 G大阪 9 J 18 8 0 0 1 0 19 8
1999 J1 13 4 2 1 - 15 5
フランス リーグ戦 F・リーグ杯フランス杯 期間通算
1999-00 ソショー リーグ・ドゥ 18 3
2000-01 14 1
2001-02 リーグ・アン 1 0
マルティーグ リーグ・ドゥ 26 9
通算 ユーゴスラビア プルヴァ 112 61
ユーゴスラビア 3部 70 27
フランス アン 133 64
フランス ドゥ 58 13
日本 J1 31 12 2 1 1 0 34 13
総通算 332 139

個人タイトル[編集]

代表歴[編集]

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]