アライシュ

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アライシュ

العرائش
アライシュの位置(モロッコ内)
アライシュ
アライシュ
モロッコ内の位置
北緯35度11分0秒 西経6度9分0秒 / 北緯35.18333度 西経6.15000度 / 35.18333; -6.15000
モロッコの旗 モロッコ
地方 タンジェ=テトゥアン=アル・ホセイマ地方
アライシュ州
人口
(2004年)
 • 合計 107,371人
等時帯 UTC+1 (CET)

アライシュالعرائش al-ʿarāʾiš; ベルベル語派 ⴰⵄⵔⵉⵛ)は、モロッコタンジェ=テトゥアン=アル・ホセイマ地方の都市。ララーシュ(Larache)との表記もされる。人口は107,371人(2004年調査)。

概要

モロッコ北部にあり、タンジェの南約86kmにある大西洋に面した港町である。急速に都市化が進んでいる。

地中海性気候であり、10月から4月までは湿度があり涼しい。5月から9月までは乾燥し暑い。年間の降雨量は700mmから800mmの間で、主として10月から4月の間に集中する。雨季に気温6℃、乾季に32℃を記録する。

アライシュ周辺の水源は、ロッコ・ワジとその支流に頼っている。

歴史

メディナ

フェニキア人、カルタゴ人に知られた古代都市リクス(en:Lixus、現在のアライシュ港の北)があった。

伝説によるとアライシュは、ドラゴンが守る「ヘスペリデスの園」のある場所であるとされていた。

アライシュは8世紀にでき、828年にはイドリース朝の王子が弟へアライシュを与えた。アラブ人は駐屯地をリクス周辺につくり、ルクス川の付近にまで拡張した。

1471年、ポルトガル人アルシラとタンジェに定住し、アライシュに遠くないルクス河岸まで迫り、砦を建設し始めた。しかし、土着マグレブのムーレイ・ナセル軍によって彼らは追放されたため、完成しなかった。ムーレイ・ナセルは、海側からの脅威と川の影響を防ぐために、アライシュに強固な城壁を築いた。

1610年からアライシュはスペイン領となり、サン・アントニオ・デ・アララチェ(San Antonio de Alarache)と呼ばれた。1689年、アラウイ朝のスルタン、イスマイールによってアライシュは占領された。

1820年、アライシュはオーストリア軍艦隊から砲撃された。1859年、スペイン=モロッコ戦争の結果、アライシュはスペイン領モロッコの一部となった。1860年時点のアライシュ人口は3500人で、その大多数がイスラム教徒で、200人ほどのユダヤ人、20人ほどのヨーロッパ人がいた。

およそ30年後の1911年、222年ぶりにスペイン軍がアライシュに上陸した。アライシュのスペイン保護領としての歴史は1956年まで続き、その間に、リベラシオン広場やスペイン広場の建設、新たな市の大通りや動脈の建設という都市計画が進められて全ての面で変貌を遂げた。

姉妹都市

脚注

外部リンク