アダム・スタニスワフ・サピェハ

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アダム・スタニスワフ・サピェハと妻のヤドヴィガ

アダム・スタニスワフ・サピェハAdam Stanisław Sapieha, 1828年12月4日 ワルシャワ - 1903年7月20日 バート・ライヒェンハル)は、オーストリア=ハンガリー(二重帝国)ポーランド人貴族、政治家。サピェハ家の公(侯爵(Fürst)/公爵(książę))。

生涯[編集]

レオン・ルドヴィク・サピェハ公とその妻のヤドヴィガ・ザモイスカ伯爵夫人(1806年 - 1890年)の間の長男として生まれた[1]イギリスに留学してロンドン大学で自然科学を、スコットランドのスピロウ(Spylaw)で農業経営を学んだ。

1848年革命に際しては、ガリツィアで独立運動のために結成された国民防衛軍に協力し、パリで武器を買い付けている。1849年には郷里に戻り、クラシチン(現在のポトカルパチェ県プシェムィシル郡)の所領を経営するようになった。彼はガリツィア州地主協会に所属し、1875年にはその会長となった。会長としてはプシェムィシルでのストライキなどを主導したり、様々な地主団体の連携を深めようと努めた。

1863年の民族反乱(1月蜂起)では白派(穏健派)を支持し、蜂起軍に武器や資金を提供した。1864年にはパリに赴き、反乱継続のための資金援助を呼び掛けている。1866年にガリツィアに戻り、ガリツィアの自治を求める運動で中心的役割を果たした。1868年にガリツィア王国(領邦)議会議員となった後は、以前とは逆に帝国政府を支持する側に回った。1879年にはオーストリア貴族院議員となった。同世代のガリツィアの貴族・知識人と同様、若い頃はリベラル派だったが、1865年以後は保守派に鞍替えしたと言われる。

サピェハは1873年の学校と裁判所におけるポーランド語使用の合法化に貢献した。1874年にレンベルク(現在のウクライナリヴィウ州リヴィウ)に林業学校を、1877年にガリツィア林業協会を創設している。またガリツィアにおける鉄道建設の出資者にも名を連ねた。また日刊新聞の「クライ(Kraj)」紙や、様々な文化機関を支援していた。

1852年にヴワディスワフ・ヒェロニム・サングシュコ公の娘ヤドヴィガ・サングシュコ(1830年 - 1918年)と結婚し、間に4男3女の7人の子女をもうけた[1]。長男のヴワディスワフ・レオン・サピェハ(1853年 - 1920年)は政治家、三男のパヴェウ・ヤン・サピェハ(Paweł Jan Sapieha、1864年 - 1930年)はポーランド赤十字社初代総裁、末息子のアダム・ステファン・サピェハ(1867年 - 1951年)は枢機卿・クラクフ大司教となった。

参考文献[編集]

  • Sapieha, Adam Stanisław Fürst. In: Österreichisches Biographisches Lexikon 1815–1950 (ÖBL). Band 9, Verlag der Österreichischen Akademie der Wissenschaften, Wien 1988, ISBN 3-7001-1483-4, S. 420.

脚注[編集]

  1. ^ a b Minakowski, Marek Jerzy. “Adam Stanisław ks. Sapieha-Kodeński z Krasiczyna h. Lis (ID: lu.29460)”. 2012年3月30日閲覧。