湯浅一郎

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湯浅 一郎
誕生日 1869年1月30日
出生地 上野国(現・群馬県安中市
死没年 1931年6月23日
国籍 日本の旗 日本
芸術分野 絵画
教育 東京美術学校
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湯浅 一郎(ゆあさ いちろう、明治元年12月18日1869年1月30日) - 昭和6年(1931年6月23日)は、明治・大正・昭和戦前期の日本の洋画家。政治家・湯浅治郎の長男。湯浅八郎は弟。上野国(現・群馬県安中市)出身。

経歴

同志社英学校(現・同志社大学)、東京美術学校(現・東京藝術大学)卒業。黒田清輝の天真道場に学び、大正時代の日本の洋画界の重鎮だった。1888年(明治21年)に山本芳翠の生巧館画塾に入塾して芳翠から洋画を学び、1896年(明治29年)には白馬会の結成に加わった。1906年(明治39年)にジブラルタル経由でスペインに渡り、アルヘシーラスグラナダセビリアに滞在した後、マドリードプラド美術館ではいくつかの作品を模写している[1]。特にディエゴ・ベラスケスの『ラス・メニーナス』については「これを見たいためにまずスペインに行ったのであった。この部屋に入ったときは、これを見ればほかに絵を見る必要がないとまで思わせた」と語っている[1]。マドリードには約1年、スペイン全体には約1年半滞在してからフランスに渡り、1908年(明治41年)の第2回文展にはパリで制作した『イスパニア国風景』を出品した[1]。1914年(大正3年)には二科会の結成に参加。1931年(昭和6年)死去。

主な作品

『徒然』(1904年、群馬県立近代美術館蔵)
  • 徒然
  • 画室
  • 村娘
  • 室内婦人像

その他、新島襄の肖像画(安中教会)を描く。

脚注

  1. ^ a b c 坂東省次 2013, pp. 276–277.

参考文献