出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1955年の阪急ブレーブスでは、1955年の阪急ブレーブスの動向をまとめる。
この年の阪急ブレーブスは、第2次西村正夫監督体制の2年目(通算6年目)のシーズンである。
西村監督2年目の1955年シーズン、野球の大国キューバからロベルト・バルボンが入団。バルボンは俊足と陽気な性格でチームの看板選手となり、2年目の梶本隆夫、翌年入団の米田哲也らとともにチームを支えた。バルボンの加入でチーム打率が.267のリーグ1位、盗塁数が優勝の南海の245個に次ぐ213個のリーグ2位とまずまずだったが、本塁打は39本で南海・西鉄に大きく引き離された。投手陣は2年目の梶本や柴田英治、阿部八郎、原田孝一、アルビン・スピアマンなどがローテーションを守った。チームは6月26日から5連勝すると、7月21日から10連勝で5位以下を引き離し、8月22日にも5連勝するなど好調だったが9月中旬から5連敗の後1つ勝って4連敗。それでも10月は8勝3敗と勝ち越して2年ぶりにAクラスを固めた。チームは優勝の南海に10勝10敗と五分で、2位西鉄には11勝9敗と勝ち越したが3位の毎日に相性が悪く、5月7日から同一カード8連敗を喫したのが響き、優勝はならなかった。またこの年は、ユニフォームの胸文字・背番号・袖ラインを赤に変更、新たに赤のズボンラインを加えた[2]
チーム成績[編集]
レギュラーシーズン[編集]
1955年パシフィック・リーグ順位変動
順位
|
4月終了時
|
5月終了時
|
6月終了時
|
7月終了時
|
8月終了時
|
9月終了時
|
最終成績
|
1位
|
南海 |
--
|
西鉄 |
--
|
南海 |
--
|
西鉄 |
--
|
南海 |
--
|
南海 |
--
|
南海 |
--
|
2位
|
西鉄 |
0.5
|
南海 |
1.5
|
西鉄 |
2.0
|
南海 |
0.0
|
西鉄 |
2.5
|
西鉄 |
4.5
|
西鉄 |
9.0
|
3位
|
毎日 |
1.5
|
毎日 |
4.5
|
毎日 |
4.5
|
毎日 |
9.0
|
毎日 |
10.0
|
毎日 |
11.5
|
毎日 |
14.0
|
4位
|
阪急 |
7.5
|
阪急 |
10.0
|
近鉄 |
14.0
|
阪急 |
11.0
|
阪急 |
13.5
|
阪急 |
18.0
|
阪急 |
19.0
|
5位
|
近鉄 |
9.5
|
近鉄 |
10.5
|
阪急 |
14.5
|
近鉄 |
19.0
|
近鉄 |
26.5
|
近鉄 |
28.0
|
近鉄 |
39.0
|
6位
|
東映 |
10.5
|
大映 |
16.5
|
東映 |
23.0
|
大映 |
29.0
|
大映 |
34.0
|
大映 |
41.5
|
大映 |
46.0
|
7位
|
トンボ |
12.0
|
トンボ |
17.5
|
大映 |
23.5
|
東映 |
29.5
|
東映 |
37.0
|
東映 |
44.0
|
東映 |
48.0
|
8位
|
大映 |
14.5
|
東映 |
18.0
|
トンボ |
26.5
|
トンボ |
34.5
|
トンボ |
44.5
|
トンボ |
51.5
|
トンボ |
57.0
|
[1]
オールスターゲーム[編集]
できごと[編集]
選手・スタッフ[編集]
[3]
表彰選手[編集]
リーグ・リーダー
|
選手名 |
タイトル |
成績 |
回数
|
バルボン
|
最多安打 |
163本 |
初受賞
|
|
---|
1930年代 | |
---|
1940年代 | |
---|
1950年代 | |
---|
1960年代 | |
---|
1970年代 | |
---|
1980年代 | |
---|
1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|
脚注
1936年から1946年までは「阪急軍」(1945年は戦況悪化のため、公式戦を休止。合同チームによる非公式戦のみ開催。) 1947年から1988年までは「阪急ブレーブス」 1989年から1990年までは「オリックス・ブレーブス」 1991年から2004年までは「オリックス・ブルーウェーブ」(2004年オフに大阪近鉄バファローズと球団合併) 2005年から「オリックス・バファローズ」
|