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1953年の名古屋ドラゴンズでは、1953年の名古屋ドラゴンズの動向をまとめる。
この年の名古屋ドラゴンズは、坪内道典監督の2年目のシーズンである。
概要
松竹・大洋との合併によりセ・リーグは結成4年目でようやく6球団へ移行したこの年、チームは前年同様巨人の対抗馬に予想された。開幕後はまずまずの成績を残し、この年のオールスターには辞退した西沢道夫を除き6人の選手を送り込むなど健闘した。しかし、セ・リーグに加盟してもライバル巨人の背中は遠く、チームは70勝57敗3分で2年連続の3位に終わり坪内監督はこの年を最後に辞任した。シーズン終了後、名古屋鉄道が球団の経営から撤退し中日新聞社の単独経営となったことにより、球団の名称を「中日ドラゴンズ」に戻したため、名古屋ドラゴンズを名乗ったのはこの年が最後となった。投手陣は杉下茂が23勝、大島信雄が12勝をそれぞれあげたほか、石川克彦が18勝で最高勝率を獲得するなどの活躍でチーム防御率はリーグ3位を記録。打撃陣は4番の西沢が打率リーグ3位、児玉利一が打率リーグ6位を記録するなどまずまずの成績を残したが、得点が巨人と140点差以上の3位で、2位の阪神にも80点差をつけられた。対戦成績では2位争いを演じた阪神に13勝13敗と五分五分だったが、優勝の巨人には弱く8勝17敗1分で負け越した。
チーム成績
レギュラーシーズン
1953年セントラル・リーグ順位変動
順位
|
4月終了時
|
5月終了時
|
6月終了時
|
7月終了時
|
8月終了時
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最終成績
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1位
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
2位
|
名古屋 |
2.5
|
名古屋 |
3.0
|
名古屋 |
3.5
|
名古屋 |
5.5
|
名古屋 |
7.5
|
大阪 |
16.0
|
3位
|
洋松 |
4.5
|
大阪 |
6.0
|
大阪 |
5.5
|
大阪 |
8.0
|
大阪 |
9.5
|
名古屋 |
18.5
|
4位
|
大阪 |
5.0
|
洋松 |
11.0
|
広島 |
13.5
|
広島 |
16.5
|
広島 |
18.0
|
広島 |
36.0
|
5位
|
国鉄 |
9.0
|
広島 |
12.5
|
洋松 |
16.0
|
洋松 |
17.5
|
洋松 |
23.5
|
洋松 |
37.5
|
6位
|
広島 |
9.0
|
国鉄 |
21.5
|
国鉄 |
24.5
|
国鉄 |
30.5
|
国鉄 |
31.5
|
国鉄 |
42.0
|
[1]
オールスターゲーム1953
できごと
選手・スタッフ
[2][3]
表彰選手
リーグ・リーダー
|
選手名 |
タイトル |
成績 |
回数
|
石川克彦
|
最高勝率 |
.818 |
初受賞
|
出典
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---|
1930年代 | |
---|
1940年代 | |
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1950年代 | |
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1960年代 | |
---|
1970年代 | |
---|
1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1945年は戦況悪化のため、公式戦を休止。合同チームによる非公式戦のみ開催。 |