高頭仁兵衛

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高頭 仁兵衛(たかとうじんべえ/にへえ、1877年5月20日[1] - 1958年4月6日)は、明治から昭和にかけての登山家。仁兵衛は高頭家当主の代々の名乗りで、本名は(しょく)、号は義明。

新潟県三島郡深沢村(現在の長岡市[2]豪農の家に生まれる。1896年(明治29年)に父の死により19歳で家督を相続。翌年、北蒲原郡の豪農・市島家の二女レイ子と結婚。幼少期は生来身体が弱かったが、片貝小学校までの通学のため毎日往復3里(約12km)の歩行で健康を取り戻した。そこで出会った恩師・大平晟の指導と、志賀重昂の『日本風景論』の影響で登山に目覚める。13歳で弥彦山、20歳の時には富士山苗場山八海山に登るなどしたが、危険を案ずる母親から登山を禁じられてしまう[3]。しかし、山に対する情熱は失われず、これをきっかけに地理書・紀行書・和歌・詩や文集など山に関するあらゆる資料を蔵一杯に蒐集し、それらを元に自作の妙録(百科事典)の制作を思い立ち、和紙に毛筆で書き上げた800枚を超える原稿を持って志賀重昂を訪れ、そこで紹介された小島烏水の勧めもあって博文館(社長の大橋新太郎は高頭と同郷)から1906年に『日本山嶽志』を刊行する[3][4]。3,000部の自費出版であったが、本邦初の本格的な山の百科事典として好評を博し、日本の登山黎明期におけるバイブル的なポジションとして多くの岳人たちによって愛読された。初版のうち1,000冊は各地の図書館や学校などに寄贈された。

1905年、小島烏水が中心となって「山岳会」(後の日本山岳会)を結成した際に発起人7人のうちの1人に加わっただけでなく、その資金を提供し(会の年会費が年1円の時代に毎年1,000円の資金援助を向こう10年間約束、これは実際には18年続いた)、また機関誌『山岳』の発起人を初期から28年間務めた[3][4]。その後は烏水らと共に各地の山を登り、日本アルプスの探検登山の中心人物となった[3]1933年には烏水の後を継いで日本山岳会の第2代会長に就任している[4]。会員番号は4番で、1935年には同会の名誉会員に選ばれている。

1915年7月18日、銀山平から只見川に沿って遡上し、大白沢の不動滝上部から尾根を通って平ヶ岳に登頂(2023年現在ここに登山道は無い)。機関誌『山岳』第10年第3号に「平ヶ嶽登攀記」として登山記録を寄稿、存在を世に広く知らしめた。

1917年長岡市初の公営図書館・互尊文庫の竣工の際には、図書1万8,800冊を寄贈した[5](開館は1918年。後に長岡空襲で焼失)。

1935年、高頭が中心となり苗場山の山頂に大平晟のレリーフを設置(制作は羽下修三(羽下大化))。

1946年、日本山岳会の戦後2番目の地方支部として日本山岳会越後支部を設立、顧問に就任。

1958年没。享年81歳。菩提は故郷の深沢にある正林寺。生涯を郷土の発展と山岳振興に費やし、手元には何も残らなかったという。自著『御国の咄し』の書き出しで、「先祖から伝わりました家宝を売りましたり、家屋を壊しましたり致しまするから、それが訛りまして破家(ばか)となりましたものと確信を致して居りまする」と述懐している。

著作に『日本山嶽志』・『日本太陽暦年表』・『御国の咄』などがある[3][4]。日本山嶽志は1970年に復刻版が出版されている。

戦後、農地解放で高頭邸の一部は自治体に寄付され、現在は長岡市の河内公園として整備されている。地元住民によって頌徳碑が作られた(碑文は石黒忠篤による)。最寄りは信越本線来迎寺駅

日本山岳会越後支部によって、新潟県の弥彦山大平遊園に顕彰碑(高頭仁兵衛寿像碑)が建てられている(碑文は武田久吉による)。また、個人の遺徳を偲んで毎年7月25日に「高頭祭」が開かれている(弥彦山たいまつ登山祭と同日程)。レリーフが南向きなのは、苗場山頂の大平晟碑を南望できるためと言われる。

新田次郎の小説『劒岳 点の記』では主人公・柴崎のライバル、小島の所属する山岳会の設立経緯の説明の下りで実名で言及されている。

脚注[編集]

  1. ^ “コトバンク「高頭仁兵衛」”. https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E9%A0%AD%E4%BB%81%E5%85%B5%E8%A1%9B-1087421#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.90.8D.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8.2BPlus 2023年3月12日閲覧。 「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」
  2. ^ “コトバンク「高頭仁兵衛」”. https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E9%A0%AD%E4%BB%81%E5%85%B5%E8%A1%9B-1087421 2023年3月12日閲覧。 「日本大百科全書(ニッポニカ)」(執筆者:徳久球雄)及び「世界大百科事典」
  3. ^ a b c d e 山崎安治『岳人事典』「高頭仁兵衛」P.141
  4. ^ a b c d 近藤信行『日本人名大事典』(現代)「高頭仁兵衛」P.444
  5. ^ 『長岡あーかいぶす第13号』長岡市立中央図書館文書資料室、2013年10月1日、3頁。 

参考文献[編集]

  • 山崎安治「高頭仁兵衛」徳久球雄 編『岳人事典』東京新聞出版、1983年 ISBN 978-4-808-30148-4 P141.
  • 近藤信行「高頭仁兵衛」『日本人名大事典』[補巻・現代]平凡社、1979年 ISBN 978-4-582-12200-8 P444. 
  • 池内紀『二列目の人生 隠れた異才たち』晶文社、2003年 ISBN 978-4794965660 のち、集英社文庫、2008年 ISBN 978-4087463521
  • 日本山岳会『越後の旦那様-高頭仁兵衛小伝-』野島出版、1970年
  • 長岡市編『ふるさと長岡の人びと』、1998年
  • 新潟県山岳協会新山協ニュース第24号「高頭仁兵衛翁と新潟県登山祭」、1985年
  • 日本山岳会越後支部報第4号「高頭仁兵衛翁(高頭祭)について」、2012年
学職
先代
小島烏水
初代:1906年 - 1933年
日本山岳会 会長
第2代:1933年 - 1935年
次代
木暮理太郎
第3代:1935年 - 1944年