長谷川清二郎

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 長谷川 清二郎 七段
名前 長谷川 清二郎
生年月日 1918年????
没年月日 不詳、1977年12月以前
プロ入り年月日 1938年
引退年月日 1948年[注釈 1]
出身地 千葉県寒川宿
所属 将棋大成会(関東)
日本将棋連盟(関東)
師匠 石井秀吉七段
段位 七段
順位戦最高クラス B級
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長谷川 清二郎(はせがわ せいじろう、1918年[1] - 1977年12月以前[注釈 2])は、日本の元将棋棋士[1]石井秀吉門下[1]千葉県[1]の寒川宿[3][4](現在の千葉県千葉市中央区寒川町)出身。アマチュアの全国将棋大会で優勝してからプロに転じ、七段[1]まで昇段したが、精神疾患のため30歳で無期限休場となり、後に日本将棋連盟を退会した。

経歴[編集]

幼少時から将棋に興味を持ち、アマチュアとして石井秀吉の指導を受けていた[1][4]1935年10月、大阪毎日新聞社が主催した第1回の「全日本アマチュア将棋選手権大会」[4][5][6][注釈 3]に関東代表[3][5]として出場し、最年少出場者[3][4]ながら優勝を飾った[1][3][4][5]。この優勝でプロの棋士となることを決意し[5][1]1936年に初段[1]1937年に二段[1]1938年に四段[1]となった。その後、1939年には五段[1]1941年には六段[1]に昇段した。

1946年-47年の第1期順位戦の六・七段戦(B級)に出場し、1947年には七段[1]へと昇段した。1947年-48年の第2期順位戦B級にも参加したものの、第3期順位戦を病気のため欠場し[7][8]、その後の順位戦には参加していない。

休場[編集]

病弱だったようである。1948年3月に将棋大成会(後の日本将棋連盟)が出版した名鑑『現代棋士名鑑:次の名人は誰?』[1]では、「戰爭中から强度の神經衰弱を病み、一時再起を憂慮されたが、終戰後漸次快復に向いつゝあり、徃年の元氣を取戾す日も近く、その活躍を期待されてゐる[1]と紹介されている。日本将棋連盟の月刊誌『将棋世界1956年6月号付録の「現代棋士名鑑」[9]では、「休場、引退棋士」の項に長谷川が記載されている[9]山本武雄1966年に出版した書籍『将棋百年』[10]には、1946年の第1期順位戦に出場した棋士達のその後に関する補足説明があり、そこでは長谷川が後に「再起不能の病気休場[10]となったことが述べられている。

広津久雄は、静岡新聞日曜版に連載していた回想録『静岡将棋誌』で長谷川について言及している[11][12]。長谷川はある時期から対局中の奇妙な行動(新聞紙でしきりに顔を拭ったり、風変わりな作法で煙草を吸ったりするなど)が目立つようになり、他の棋士を困惑させていたという[11][12]。本人と家族の意向で休場せず対局を続けていたが、他の棋士から日本将棋連盟にたびたび苦情が寄せられたため、最終的には連盟の理事会の判断で休場させたという[11][12]

上述した山本武雄[10]広津久雄[11][12]、また後述の升田幸三[8]は、休場の原因となった長谷川の「病気」の種類を明言していない。しかし精神疾患だと明言している文献も存在する。1951年8月の『将棋評論』誌に「キセイ子」というペンネームの人物が執筆したエッセイは、「將棋をあまり思い詰めて氣が変になつた人」の例として長谷川に言及し[13]、「悲しい將棋道のギセイ者[13]と長谷川を評している。1977年12月の『近代将棋』誌に掲載された町田進のエッセイは、長谷川について「勝つことにあまり執心して気が狂ったといわれている[2]若くして狂ってしまった[2]と述べている。町田によると、将棋連盟がまだ中野区にあった頃[注釈 4]、同区の将棋会所に、既に引退状態だった長谷川が時々訪れて指導対局を行っていた[2]。当時の長谷川は立ち振る舞いにも精神疾患の影響が強く出ていたが、それでも指導対局が始まると居ずまいを正し、二枚落ちでアマチュア高段者たちを圧倒したという[2]。町田はまた、1977年時点で長谷川は故人であるとも述べている[2]

退会[編集]

升田幸三は実戦集『升田将棋選集』の第1巻で長谷川との第1期順位戦での対局を取り上げ[8]、長谷川のその後について「第三期順位戦は病気のため欠場し、退会した[8]と述べている。升田から見て長谷川は「無口でめったに口を開くこともなかった。小柄な体で、いかにも神経質そう[8]という印象だったという。

日本将棋連盟1981年以降の将棋年鑑や2018年以降の公式ウェブサイトに掲載している「棋士系統図」[14][15]では、長谷川は退会扱いとなっている[注釈 5]。日本将棋連盟公式ウェブサイトの「引退棋士」[16]や「物故棋士」[17]のページに長谷川は記載されていない[注釈 6]

棋風[編集]

1948年の『現代棋士名鑑』[1]によれば、長考派の受け将棋で「受けの長谷川[1]と呼ばれたという。また同書には「最近病氣快復後は長考から早指しに轉向した觀がある[1]とも述べられている。

升田幸三は長谷川の棋風を「自分から攻勢に出てくることは、ほとんどと言ってよいほどない[8]充分な態勢を敷き、相手の攻めを待って反撃に転ずるというのが、この人の得意のパターン[8]と評している。

広津久雄によると、アマチュア時代の長谷川はさらに極端な受け将棋であったが、奨励会入会後はそのままでは成績が上がらず、以前よりも攻めるように棋風を変えることで克服したという[12]

主な成績[編集]

在籍クラス[編集]

順位戦・竜王戦の在籍クラスの年別一覧
開始
年度
(出典)順位戦 (出典)竜王戦
名人 A級 B級 C級 0 竜王 1組 2組 3組 4組 5組 6組 決勝
T
1組 2組 1組 2組
1947 1 六・七段戦5位
1948 2 B級18位
順位戦、竜王戦の 枠表記 は挑戦者。右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。
順位戦の右数字はクラス内順位 ( x当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 )
順位戦の「F編」はフリークラス編入 /「F宣」は宣言によるフリークラス転出。
竜王戦の 太字 はランキング戦優勝、竜王戦の 組(添字) は棋士以外の枠での出場。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 休場年。
  2. ^ 近代将棋』1977年12月号192ページに掲載されている町田進のエッセイ[2]に「長谷川七段はもうこの世にはいない。 (中略) ごめい福を祈る。[2]とある。
  3. ^ この1935年10月のアマチュア将棋全国大会は、文献によって名称が異なる。大阪毎日新聞社東京日日新聞社が1936年に出版した『毎日年鑑』や両社の後身の毎日新聞社が2002年に出版した130年史[6]では「全日本アマチュア将棋選手権大会」、大阪毎日新聞社の『ホーム・ライフ』誌の1935年の記事[4]では「全日本アマチュア将棋選手権」、『将棋月報』誌の1935年の記事[3]では「素人将棋選手権大会」、将棋大成会が1948年に出版した『現代棋士名鑑』[1]では「全日本アマチュア名人戦」となっている。
  4. ^ 日本将棋連盟が中野区にあったのは1949年から1961年まで。将棋会館#東京を参照。
  5. ^ 「棋士系統図」[14][15]末尾の凡例に「△:引退/▲:退会/●:故人」とあり、図中で長谷川の名前には▲印がついている[14][15]
  6. ^ 日本将棋連盟を退会した他の棋士(斎藤銀次郎間宮純一市川伸永作芳也橋本崇載)も、将棋連盟ウェブサイトの「引退棋士」[16]や「物故棋士」[17]のページには掲載されていない。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 将棋大成会出版部 編「七段 長谷川淸二郎」『現代棋士名鑑:次の名人は誰?』将棋新聞社、1948年3月22日、26頁。 国立国会図書館デジタルコレクション、デジタル化資料送信サービス限定公開)
  2. ^ a b c d e f g 町田進「続 将棋万華鏡 井野金蔵氏の巻 一」『近代将棋』第28巻12号(通巻333号)、1977年12月、190-192頁。 国立国会図書館デジタルコレクション、デジタル化資料送信サービス限定公開)
  3. ^ a b c d e 「素人将棋選手権大会状況」『将棋月報』第152号、将棋月報社、長野県松本市、1935年11月、80頁、82頁。 国立国会図書館デジタルコレクション、デジタル化資料送信サービス限定公開)
  4. ^ a b c d e f 「アマチユア名人長谷川少年の横顏」『ホーム・ライフ』第1巻第5号、大阪毎日新聞社、1935年12月、74頁。 国立国会図書館デジタルコレクション国立国会図書館内限定公開)
  5. ^ a b c d 「全日本アマチュア將棋選手權大會 / 長谷川少年專門棋士となる」『毎日年鑑 昭和12年版』大阪毎日新聞社東京日日新聞社、1936年10月、265頁。 国立国会図書館デジタルコレクション、インターネット公開)
  6. ^ a b 毎日新聞130年史刊行委員会(編)『「毎日」の3世紀 ― 新聞が見つめた激流130年』毎日新聞社、2002年、別巻126頁。ISBN 4-620-90594-1 
  7. ^ 菅谷北斗星『将棋五十年』1955年、193頁。 国立国会図書館デジタルコレクション、デジタル化資料送信サービス限定公開)
  8. ^ a b c d e f g 升田幸三『升田将棋選集』第1巻、朝日新聞社、1985年、266-267頁。ISBN 4-02-255411-8 
  9. ^ a b 「特別附録 現代棋士名鑑」『将棋世界』第20巻第6号、日本将棋連盟、1956年6月、156頁。 国立国会図書館デジタルコレクション、国立国会図書館内限定公開)
  10. ^ a b c 山本武雄『将棋百年』時事通信社、1966年、101頁。 国立国会図書館デジタルコレクション、デジタル化資料送信サービス限定公開)
  11. ^ a b c d 広津久雄 (2004年10月31日). “静岡将棋誌(348) 無類の受け将棋 長谷川さんが引退”. 静岡新聞日曜版: p. 7 
  12. ^ a b c d e 広津久雄 (2006年4月2日). “静岡将棋誌(384) 初代アマ名人・長谷川さん 棋風変え成績向上”. 静岡新聞日曜版: p. 7 
  13. ^ a b キセイ子「涼み台」『将棋評論』第5巻第8号、将棋研究会、1951年8月、34頁。 国立国会図書館デジタルコレクション、デジタル化資料送信サービス限定公開)
  14. ^ a b c 「棋士系統図」『将棋年鑑 昭和56年版』日本将棋連盟、1981年8月10日、366-367頁。 
  15. ^ a b c 棋士系統図”. 日本将棋連盟. 2022年8月21日閲覧。
  16. ^ a b 引退棋士”. 日本将棋連盟. 2022年8月21日閲覧。
  17. ^ a b 物故棋士”. 日本将棋連盟. 2022年8月21日閲覧。