都一中
都 一中(みやこ いっちゅう)は、一中節の三味線方の名跡。代々都派の家元。別名「都太夫一中」。
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[編集] 初代
(慶安3年(1650年) - 享保9年5月14日(1724年7月4日))本名は恵俊。都太夫一中ともいわれる。
江戸中期の一中節の創始者。京都の浄土真宗本願寺派明福寺の3代目住職周意の次男。住職をやっていたが元来芸事が好きで1670年に還俗し京の歌舞伎芝居小屋都万太夫座の座本であった万太夫こと都越後掾の弟子となり須賀千朴を名乗った。後に都太夫一中と名乗り、一中節を創始したという。
当初は座敷浄瑠璃を語ったが、1706年11月に大坂の片岡仁左衛門座で「京助六心中」小屋出演も果たしている。
主な弟子には、実子の若太夫(後の2代目一中)、豊後節の宮古路豊後掾、等多岐に渡り多くの名人を育てた。
[編集] 2代目
(生没年不詳) 初代一中の実子。若太夫が没後に襲名。後受領し京太夫一中、京太夫和泉掾を名乗った。
[編集] 3代目
初代の門下。都秀太夫千中の名で森田座等で出勤。
[編集] 4代目
(生没年不詳)
初代の義理の息子。金太夫三中、吾妻路宮古太夫を経て2代目没後に3代目襲名。
[編集] 5代目
(宝暦10年(1760年) - 文政5年7月5日(1822年8月21日))本名は千葉嘉六。
5代目以前との血縁関係、師弟関係不明。天明時代に吉原で男芸者をしていた。吾妻路宮古太夫から5代目一中を襲名。1792年春、江戸中村座で「傾城浅間岳」で語ったがあまり評判がよくなく程なく小屋に出なくなり河東節の三味線方の3代目山彦新次郎(後の一中節の初代菅野序遊)と組んで新曲発表に明け暮れた。
[編集] 6代目
俗称は「大野万太」。5代目一中の門下。2代目都千中が襲名。
[編集] 7代目
(生没年不詳)
俗称を「お菰の一中」。5代目一中の門下。栄中、河六、半中等を経て1847年に6代目一中を襲名。
[編集] 8代目
6代目一中の従孫。1855年で若年ながら7代目一中を襲名するも病弱で夭折。
[編集] 9代目
(生没年不詳)千葉屋仙助。
8代目一中の実子。実質の活躍なし名跡のみ相続。襲名まもなく死去。
[編集] 10代目
(慶応4年(1868年1月8日) - 昭和3年(1928年2月6日))本名は伊東楳太郎。
東京浅草花川戸の生まれ、幼少から音曲を親しみ、1881年に10代目一中を襲名。1886年に1月江東中村樓で「三番叟」を語り襲名披露。1888年に日本演芸矯風会技芸員、1870年に東京音楽学校邦楽調査掛嘱託となる。1917年に病になる。一時期宮薗節家元も兼任。実の娘が11代目一中。
[編集] 11代目
(明治39年(1906年9月4日) - 平成3年(1991年7月8日))本名は小林清子。古曲会理事長。
東京銀座の生まれ、父が10代目一中。6歳より長唄、河東節、宮薗節、端唄、荻江節、地唄等幅広く邦楽を学び23歳で都千朴の名で一中一本の道に進む。初代都一花、2代目都一広に徹底的に芸を仕込まれ、1947年に11代目一中を襲名。
1973年に芸術選奨文部大臣賞。1982年に文化庁芸術祭大賞。1983年にモービル音楽賞。1984年に重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。
作曲には「水の上」がある。LPレコードは「一中節古典名作選」がある。
[編集] 12代目
都一中 (12代目)の項を参照。