遠藤現夢

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遠藤現夢(えんどうげんむ 男: 1864~1934)は、本名を遠藤十次郎といい, 福島県北部にある磐梯高原(裏磐梯)緑化の父と呼ばれる。

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[編集] 現夢の一生

会津若松市内の商家・滝口吉衛門(醸造業)の12男として生まれたが、 醸造業をいとなむ遠藤家の養子となり、幼少より剣術を習って真一刀流を極めた。1888年磐梯山噴火に伴う膨大な岩屑なだれ(がんせつなだれ)に覆われて数10年間荒地のままだった裏磐梯を、もう一度野鳥のさえずる森に変えたいと願い、約2年をかけて気の遠くなるような1340haに及ぶ植林をなしとげ、ついにはこの地の払い下げを受けた。20世紀初めといえば日本各地でやっと幹線鉄道が開通しだしたばかりである。遠藤現夢も1914年に全通したばかりの磐越西線(開通当時「岩越線」)で、アカマツウルシスギの苗木10万本を新潟方面から運び、さらに猪苗代からは馬車で裏磐梯方面に運んだのであるが、当然岩屑なだれ地帯はかつての道路などは埋没したままであり至るところに大きながごろごろしており、あるいは泥濘(ぬかるみ)と化した荒地に新たに道路を造りながらの前進は非常な困難を極めたことは想像に難くない。植林に関する知識は中村弥六の協力を得て、豪雪に覆われる冬も柳沼近くに番小屋を立てて齋藤丹之丞が中心となって、その苗木の生長を見守っていた。そんな出費が重なりやがては本業も傾きだしたという。

[編集] 現夢の思い

戊辰戦争会津戦争)当時、現夢は4歳位であり、戦乱で会津の街が一面焼け野原になった記憶が焼き付いていたため、自分が裏磐梯を緑に変えようとしたとも言われている。裏磐梯を現在われわれが緑豊かな磐梯高原として、目の当たりにできるのはこの遠藤現夢らの思いと努力があったからに他ならない。なお現夢が生前に立てた墓碑と磐梯山噴火で亡くなった犠牲者の慰霊碑が五色沼(柳沼)のほとりに残されている。その墓碑には「なかきよに(長き世に) みしかきいのち(短き命) 五十年 ふんかおもへば(噴火思えば) 夢の世の中」と刻まれている。

[編集] 参考文献

  • 会津大事典(国書刊行会)
  • ぼくたち、わたしたちの北塩原村(北塩原村教育委員会)

[編集] 関連項目