解慕漱

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解慕漱
各種表記
ハングル 해모수
漢字 解慕漱
発音 ヘモス
日本語読み: かいぼそう
ローマ字転写 Hae Mosu
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解慕漱(かいぼそう、ヘモス)は夫余の神話上の建国者。

概要[編集]

三国史記』や『三国遺事[1]によれば、解慕漱は天帝の子であり、五龍車に乗って紀元前58年に訖升骨城に降り立ち、北扶余を建国した。解慕漱は弓の名手で優れた戦士であり、 自らの王国である北扶余の多くの敵を征服したという。彼と柳花英語版の間の息子に解夫婁朱蒙がいた。この朱蒙は高句麗の伝説上の建国者である。

解慕漱(ヘモス)は檀君神話に登場する「桓雄(ハムス)」と類音で「太陽が光り輝く」という意味であり漢字の当て字の違いにすぎず、元々は解慕漱と桓雄は同一の太陽神であった。従って実在した人間ではなく、この伝承は王権起源神話であって歴史事実ではない。解慕漱は高句麗の建国を述べた中国の古記録や好太王碑にも現れないが、それは高句麗が扶余を征服したのちにその伝説を取り込んだからと考えられている。

『桓檀古記』の記述[編集]

桓檀古記』(偽書)によれば、解慕漱檀君朝鮮皇室の出身であり、23歳で檀君朝鮮の将軍となった。檀君朝鮮の末期に解慕漱は夫余国の建国者になった。朱蒙は沃沮王高慕漱の息子であり、 解慕漱の次男の高辰は高慕漱の祖父である。彼は多勿軍を組織してに抵抗した事がある。また西鴨緑人の高豆莫汗中国語版を東明(朱蒙)とみなしている。これらの記述は現代の創作であり史実とは考えられていない。

生涯[編集]

解慕漱扶余の建国者で最初の檀君である。桓檀古記と11世紀と13世紀の記録に現れ、後ろの2つでは「三国時代の王朝の1つである高句麗の建国者とされている。高句麗は自らを扶余と494年に併合された扶余の遺民の後継者とみなしていた。

生い立ち[編集]

解慕漱は真朝鮮古朝鮮皇族の一員であり、古朝鮮の44代目皇帝の丘勿が建国した王朝の統治下にうまれた。 古列加皇帝の治世に23歳の若さで将軍に昇進し、腐敗した時代に皇帝に忠実に仕えた。

権力へ[編集]

古朝鮮は3つの王国に分裂し滅亡しようとしていた。真朝鮮は中央の国で前首都であったが、腐敗して軍が皇帝の命令を聞かず好き勝手に振舞っていた。帝国をもう支配できていない事を見た古列加は退位して帝国を五加英語版つまり5人の中央貴族の手に委ねた。五加の元、軍の将軍や指導者は帝国を見放し反乱を起こし始めた。帝国を最後に見放したのは23歳の若さで将軍となった解慕漱だった。解慕漱が帝国を見放したのは再建するためであって、個人的な利益のためではなかった。解慕漱とその部隊はJangDangGyeong要塞へ行き、宮殿を立てた。そこから解慕漱は天王郞という皇帝に等しい称号を名乗った。解慕漱はほとんどの古朝鮮の将軍の反乱を滅ぼし、真朝鮮のほとんどの領土を取り戻した。これによって天王郎の解慕漱は五加に北扶余の名の下、古朝鮮を再建するチャンスを与えた。北扶余の建国の後、解慕漱は古列加が万が一帰ってきた時のために6年間待った。前皇帝が政治復帰しないとはっきりした時、解慕漱に檀君の称号が授けられた。

解夫婁とのつながり[編集]

解夫婁は北扶余の四世檀君高于婁の弟であった。解夫婁が紀元前86年に死亡すると、弟の解夫婁は王位につき北扶余の檀君となった。檀君とは「王と皇帝」を意味する。しかし同年に古朝鮮の高列加の子孫である高豆莫が解夫婁に対して反乱を起こして、王位を奪って解夫婁を東へ追放した。解夫婁は付き従うものと北扶余の人々を現在の日本海近くの都市の迦葉原へ率いていった。同年、解夫婁は東扶余という別の扶余を建国した。東扶余というのは北扶余の東に位置したからである。北扶余を支配している東明檀君との軋轢を避けるため、解夫婁は東明檀君に対し自らが北扶余の属国であると認め、王という称号を使用した。

高朱蒙とのつながり[編集]

高朱蒙は、沃沮の支配者で別名を弗離支という高慕漱の息子である。弗離支は解慕漱の次子の高辰王の孫であった。よって高朱蒙は解慕漱の玄孫にあたる。高慕漱は、水辺に住む部族の首長である河伯の娘の柳花に会った。高慕漱は柳花と結婚したが、子供のの朱蒙を見る前に戦いで死んだ。高朱蒙は東扶余で成長し、東扶余の皇子たちの嫉妬から逃れるために出奔した。北扶余の国境を越えて入ると、高朱蒙はは北扶余の六世檀君高無胥に歓迎される。高無胥檀君は朱蒙を次女の召西奴英語版と結婚させることにした。高無胥が子どものないまま死ぬと、朱蒙は即位して北扶余の七世檀君となった。そうして彼は周辺の多くの王国を征服し紀元前37年高句麗を建国した。

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解慕漱は195年に死んだ。

解慕漱が登場する作品[編集]

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  1. ^ 三國遺事 卷一 高句麗 … 壇君記云君與西河河伯之女要親有產子名曰夫婁