西山尚義

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西山尚義

西山 尚義(にしやま ひさよし[1]弘化2年4月1846年〉- 慶応3年12月11日1868年1月5日〉)は、江戸時代末期勤王志士。通称の謙之助(けんのすけ)で知られる。美濃国出身。

生涯[編集]

弘化2年(1845年)、美濃国可児郡久々利村で、旗本千村氏の侍医・西山春成の子として生まれる。文久3年(1863年)1月に千村氏の中小姓・側役となる。慶応2年(1866年)3月に致仕すると、江戸に赴いて斎藤弥九郎に剣を、平田銕胤国学を師事[2][3]

墓(栃木県栃木市室町

慶応3年(1867年)10月、西郷隆盛らの企てにより江戸三田の薩摩藩邸に浪士が屯集、西山もこれに加わって関東擾乱に参画[4]竹内啓について下野へ向かい、11月に挙兵(出流山事件)。挙兵軍の中では使番という重職だった。栃木町に乗り込んだ後、念仏橋のたもとにて栃木陣屋(善野司奉行)および関東取締出役渋谷鷲郎大将)配下の兵に討ち取られる[5]。享年23。

明治23年(1890年)11月靖国神社に合祀され、明治36年(1903年)11月に正五位を追贈された[6]

著書[編集]

  • 『遺書』- 父・春成へ宛てた遺書。

関連書籍[編集]

  • 中島勝国編「可児歴史業書西山謙之助書簡集」(1983年11月発行)

脚注[編集]

参考文献[編集]