藤田一暁

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藤田 一暁(ふじた かずあき、1920年大正9年)4月1日 - 1991年平成3年)5月16日)は、日本実業家フジタ社長・会長。フジタドルフィンクラブ設立者。

経歴[編集]

広島県広島市出身[1][2]。父・定市は広島県賀茂郡黒瀬町(現東広島市)出身で、広島市で土木建築請負業を営む[3]。広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)[2][4][注釈 1]旧制広島一中を経て[2]1943年日本大学工学部建築学科卒業[2]。藤田組に入り、1949年監査役1951年取締役1957年に副社長を経て、1962年社長に就任[1]

人物[編集]

1945年昭和20年)8月6日の広島市への原子爆弾投下により、東白島町の藤田家はぺしゃんこにつぶれた[5]。自宅にいた一暁は気を失ったが、何秒後かに気がつき、ケガもないため自力で這い出した[5]。家の下にある両親とお手伝いさんを助けようとしたが、一人ではどうにもならず、通りがかりの兵隊の助けを借りて救出した[5]

家族・親族[編集]

藤田家
親戚

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 同校出身者は他に渡辺銕蔵佐々木到一内藤克俊阿川弘之竹西寛子、朝比奈隆 (画家)ら。

出典[編集]

  1. ^ a b 藤田 一暁とはコトバンク。2016年9月9日閲覧。
  2. ^ a b c d 「短期集中新連載 【東京の中の郷土】(1) 広島県の巻 この30人の咲く花鳴く鳥そよぐ風 藤田一暁」『週刊読売』1975年11月1日号、読売新聞社、40頁。 
  3. ^ a b c d e 『人事興信録 第14版 下』フ62頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年9月9日閲覧。
  4. ^ 広島陸軍偕行社附属済美学校の碑 ヒロシマを生きて被爆記者の回想/65 母校・済美の廃校 校舎焼失、門柱だけ残る 軍に関係、再建許されず /広島”. 毎日新聞. 毎日新聞社 (2020年4月17日). 2023年5月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年4月25日閲覧。土門稔 (2016年8月12日). “被爆71年:「2016ピースウォーク 軍都広島を歩く」に参加して”. クリスチャントゥデイ. 2016年8月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年4月25日閲覧。
  5. ^ a b c 『財界人国記 中国編・四国編・九州編』50-52頁。

参考文献[編集]

  • 人事興信所編『人事興信録 第14版下』人事興信所、1943年。
  • 山口比呂志、内橋克人、大隈秀夫『財界人国記 中国編・四国編・九州編』サンケイ出版、1978年。
  • 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』立風書房、2001年。