福島正利

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福島 正利(ふくしま まさとし、慶長6年(1601年) - 寛永14年12月8日1638年1月22日))は、江戸時代前期の旗本。通称は市之丞。

生涯[編集]

慶長6年(1601年)、安芸広島藩主・福島正則の子として生まれる。母は津田長義の娘。難産であったため、正利が産まれたときに母は死亡している。兄の忠勝とは同母弟。娘に久留島通春養妹。

元和9年(1619年)広島城の無断改修を理由に改易された福島正則とともに、信濃高井野藩(現在の長野県高山村)に移る。

寛永元年(1624年)に父正則が死去したとき、その遺体を幕府に無断で火葬したため、福島氏は改易される。この年、正利は取りなしを願ってか、父の遺品から大御所徳川秀忠正宗の刀・青木国次脇差木亘肩衝を、将軍徳川家光大光忠の刀・大森義光の脇差・あふら茶入を、家光の弟・徳川忠長切匁貞宗の刀・義光の脇差・修理肩衝をそれぞれ献上している。寛永2年(1625年)、幕府は正則の功績を考え、正利に父の旧領から3112石を与えて旗本とした。

江戸定詰めの正利の知行所は、高井野藩領地の一部の信濃国高井野村・駒場村(高山村)、中島村(須坂市)、三王島(山王島)・雁田村(小布施町)、大熊村(中野市)の六か村であったが、父正則と同様に年貢を免除するなどして新田開発を奨励した。

寛永14年(1637年)12月8日に死去。享年37。墓所は東京都港区三田の正覚院。長野県高山村紫に供養塔がある。正利に嗣子は無く福島氏は断絶した。

福島氏の再興[編集]

天和元年(1681年)正利の甥・福島正長(忠勝の子)の長男・正勝が2,000石の旗本として取り立てられ、福島氏は再興された。

参考[編集]

  • 高山村誌編纂委員会 編『高山村誌』2005年、242-247頁。 
  • 『寛政重修諸家譜 』巻第1439

関連項目[編集]

先代
福島忠勝
尾張福島氏
次代
福島正勝