百名収容所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
百名収容所
沖縄県南城市
玉城村 米軍配給の砂糖袋(1945年6月)
南城市と知念半島
種類民間人収容所
施設情報
管理者沖縄の米軍基地
歴史
使用期間1945-?

百名収容所(ひゃくなしゅうようしょ)は、沖縄戦当時、アメリカ軍が知念半島に設置した民間人収容所のひとつ。そのなかに百名孤児院も開設された。沖縄県島尻郡玉城村の百名(現在の南城市大字玉城百名)にあった。

概要[編集]

米軍は沖縄戦で民間人を収容するために沖縄島に数多くの収容所(キャンプ)を設置した。なかでも日本軍と共に住民が摩文仁に追いつめられた南部の激戦地では、米軍に集められた民間人はいったん知念半島の百名収容所などに収容された。そのまま百名収容所に収容される場合もあれば、北西部の収容所などに送られることもあった。

知念半島の三村には、玉城村に百名、仲村渠、下茂田の収容所、知念村に志喜屋、山里、具志堅、知念、久手堅の収容所。佐敷村に屋比久や伊原や新里に収容所が作られた[1]。まさに「終盤、半島全体が収容所としての役割」を担う状態にあった[2]

沖縄の収容所 (民間人収容所と捕虜収容所)
米軍は知念半島への衛生兵増員を要請した[3]

知念地区の収容所[編集]

沖縄島南部の住民や、南部に避難していた住民は、日本軍第32軍首里から南部に撤退したことにより、さらに膨大な数の民間人をまきこむ戦闘となる。米軍は5月中旬には既に首里・与那原戦線の崩壊を予測し、さらに大量の民間人を収容する必要があるとして、知念半島の占領が完了すると同時に速やかに収容所を設立する計画を立てていた[4]

その後、米軍は6月5日に知念半島に到達し、稲嶺、屋比久、当山、百名に民間人収容のためのキャンプ(収容所)が設営され、6月5日から10日にかけて13,285の民間人が陸軍によって移送された[5]。第7歩兵師団が散布した投降ビラの一例が報告書に記録されている[2]

みなさんがこのまま戦闘地域に居続けると、生命の危険にさらされ続けます。米国政府は、佐敷村屋比久及び玉城村百名に民間人収容所を設立しました。戦闘部隊に属していない皆さんがちゃんと保護されるように、これらのルールに従ってください。1. 直ちに屋比久または百名のどちらか近い方に向かってください。2. 毛布と調理器具を持参してください。我が軍は、自由に使える十分な食料、水及び医療用品を持っています。3. 夜間の移動は危険なので、昼間の時間帯にだけ移動してください。(後略) — 7th Infantry Division - G-2 Periodic Reports (Nos. 62 - 92) - Ryukyus (Jun - 1 Jul 1945) [001/005]

米軍が百名は安全地帯だと呼びかける一方、6月20日、日本兵と共に摩文仁の海岸に追いつめられていく民間人は投降するにも命がけの状態におかれていた。

20日、海岸の絶壁へ逃げる。上半身はだかの米兵のはだが赤く見えました。数百メートル先の丘には米兵の列が見えるが、タマは来ない。『戦争は終わりました。降服しなさい。男はふんどし1枚、女は着のみ着のまま百名知念へ行きなさい。安全な衣食住が与えられます』と米軍が放送します。上着をぬごうとした男を兵隊が日本刀でたたき切りました。『きさまはスパイだ』と叫びながらなおもずたずたに切り裂きます。もう1人の男が上着をぬいで逃げた。この男もたたき切られました。私は身動きもできず、声も出ませんでした。 — 榊原昭二『沖縄・八十四日の戦い』新潮社版 1983年 p. 189.

米軍の報告書は、南部で収容した民間人の身体的状況がこれまでのどの時点よりも深刻であるとして、衛生兵などの人員を増員要請したことを記録している[3]

南部で収容された民間人は以前に見られたどの状態よりも身体的にひどく深刻な状態にあった。少なくとも収容された民間人の30%が何らかの医学的治療を必要とし、数百というストレッチャーが緊急治療のために百名に運び込まれた。… 部隊は6月10日から6月30日まで、部隊は合計28,194人の民間人を集め、事実上すべての収容者が知念半島に退避させられた。 — Okinawa Campaign XXIV Corps Action Report, April 1, 1945 – June 30, 1945

増大する収容人数の数に米軍の食糧備蓄も圧倒的に不足し、多くの避難民が飢餓とマラリアに苦しんだ。調査によると、米軍の読谷村出身者だけでも知念半島周辺で64名亡くなっている[6]。栄養失調や餓死などが原因とみられており、知念半島の収容施設も、その他の収容所と変わらず、ネズミやカエルすら食さねば生きることができないほどであった。沖縄戦を生きのびても続く相克と深い心の傷は、いつまでも人々の心を苦しめた[7]

祖母との再会に比嘉さんらは喜んだが、祖母は足をけがしていた上、戦場の恐怖や避難による疲労、栄養失調などが重なったためか、意味不明な言動を繰り返したという。・・・ 祖母は数日後、マラリアにかかって亡くなった。比嘉さんもマラリアにかかったが、親族がネズミやカエルなどを捕まえて食べさせ、一命を取り留めた。 — 琉球新報「沖縄戦から73年、置き去りにした少年どこに…」
大浦崎収容所(1945年7月8日)


北西部の収容所への移送

増大する収容者に苦慮した米軍は、収容者を次々と北西海岸の収容所に移送した。南部で米軍に集められた民間人はいったん知念半島の百名収容所などに送られ、そのまま百名収容所に収容される場合もあれば、辺野古大浦崎収容所など北西部の収容所などに送られることもあった。移送先はさらに粗悪な状態で、多くの収容者が亡くなった。

六時頃に、みんなはトラックで具志頭の小学校に集められました。そこには、何百人という大勢の避難民が集まっていました。私たちは具志頭小学校に一泊して、そこから富里に移されて、二泊してから、歩かされて百名(収容所)の原っぱにつれて行かれ、百名に一泊、その後、佐敷村の富祖崎という部落に一か月間ぐらいいました。富祖崎は戦争の痕跡がなく、家も畑もそのままでした。罐詰とカンパンだけの配給で、避難民は農業をしても、大勢でしたから、食糧難でした。 それから避難民は一括に馬天港からアメリカの船に乗せられ、国頭の大浦湾に送られたんです。大浦湾の長崎 (註・現在のキャンプシュワブ管理区域) ですね、そこから大川 (久志村) に移されました。大川というところは、食べ物が何もないんですよ。米軍の配給といったら、赤いザラザラした砂糖だけでした。砂糖は飯盒の蓋一杯が一人分でした。砂糖と水だけですから、みんな下痢をして、栄養失調になって、痩せこけていましたよ。山にあるフーチバー (よもぎ) や野草などを取って食べていました。あそこは大へんなところでした。山の側にテントを張ってあるんですけど、テントの側までカラスが来るところなんですよ。年寄りや子供たちは、つぎつぎと死んでいました。 — 東風平村出身の女性の証言(沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)
米陸軍撮影。百名収容所でアメリカ軍医師の助手を務める少女たち(1945年)沖縄公文書館所蔵
米海軍撮影。コザ孤児院で子どもたちと共に移っているのは、当時17歳の元ひめゆり学徒隊 津波古ヒサ。(1945年8月4日)沖縄公文書館所蔵

百名孤児院[編集]

あそこでの自分の人生をコンクリートに固めて、海に捨てたかった。 — 孤児院での経験に関するインタビューで(浅井春夫「沖縄戦と孤児院」(2013年)より)

沖縄戦では、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、そのうちの沖縄出身者が122,228人、その多くが民間人であった(94,000人)[8]。沖縄戦を生きのびた住民は米軍が設置した民間人収容所に収容され、そこで粗悪な収容所運営に由来する餓死やマラリアで収容所でなくなった住民も少なくなかった。親のいない小さな子どもたちも多く、米軍はこれらの収容所に付随して孤児院を10カ所から13カ所設置した[9]

女子学徒隊と孤児院

激戦地南部で生き残り捕虜となった梯梧学徒隊ひめゆり学徒隊女子学徒隊らは、まず百名収容所に送られたが、そこでも収容所の病院や孤児院で勤務することとなる。ひめゆり学徒隊は南部の激戦地で240名のうち、136名が亡くなっているが、生存者の一人である津波古ヒサは、捕虜となって百名に送られ、そこで孤児たちの世話をすることになった経緯を以下のように語っている[10]

働くことになって、私はもう働かない、早く死ななければいけない、ってそれだけしか考えてなくてあれだったんですけどね。… (アメリカ兵が) 2才か3才ぐらいのまる裸の子どもを、私ら学生がいるところに置いて。もう14、5人ぐらいだったんですかね、… 本当に栄養失調で顔も膨れてるし、それからちょっとの物音でもがたがた震えてるし、もう口も開いて泣いてるはずなのに、もう声も出てない。かわいそうに、この子どもたちは、親が連れて歩いたらけがさせていけないと思って、穴の中に入れてあったのか、親がいなくなって子どもたちだけになって、かわいそうにって… — 元ひめゆり学徒隊 津波古ヒサ 証言(NHK 戦争証言アーカイブスより)
1945年8月4日の米海軍の記録は「沖縄本島コザの医務室」とあるが、マスで仕切った場所で生活する孤児たちの姿が記録されている。

南部で米兵が保護した多くの親のいない小さな子どもたちは、コザ収容所に集められ、またその世話係として、女子学徒隊の少女たちも6月末頃にコザに送られた[11]。以下、動員されてナゲーラ壕や識名壕に派遣された元・梯梧学徒隊の生存者の証言[12]によると、孤児院の小さな子どもたちは、服もなく小さく仕切られたマスのなかで寝起きした。それは米海軍が8月4日に撮影した「コザの医務室」の写真と一致する。

コザの孤児院です。孤児が集まってたから、そこにね、ひめゆりの人も一緒なんです。百名 (収容所) から。ひめゆりの人も一緒になって、コザの孤児院で。… 着る着物、着替えもなくて裸の子どもたち。… もう着替えもないんですよ。8畳ぐらいの部屋を4つに区切ってですね、マス状態に、そこに何名か寝かすわけじゃないですか。裸。この子どもたちが1人、うんこしたりしっこしたりしますでしょ。これ、一緒のマスの中にいる5、6人の子どもたちみんな汚れてしまうんです。朝は、この子どもたちに浴びせるのが最初の仕事です。… 暑いから子どもたちが部屋から出てきて、夜露に打たれるわけなんですよ。打たれて亡くなってるのが、毎日5、6名は亡くなっていましたね。着替える着物もない、おなかこんなですよ。もう栄養失調で。そこからアメリカがですね、米軍がミルクの中にビタミン入れて、子どもに飲ましたんですけどね。 — 元 梯梧学徒隊 稲福マサ 証言(NHK 戦争証言アーカイブスより)
1949年3月14日に米陸軍が撮影した百名孤児院の写真。
米陸軍カメラマンの撮影に笑顔でこたえる百名孤児院の子どもたち(1949年3月14日)

百名孤児院の記録

このように、多くの証言は各孤児院での子どもの衰弱死が相当数あったことを伝えているが、収容所とその養老院や孤児院を実際に設立管理していたはずの米軍には、その記録はほとんど見られず、いまも名簿や業務日誌などの所在は明らかにされていない[13]。孤児院での子どもたちの衰弱死に関する統計もなく、浅井春夫は、米軍管理のもとで正確な統計が存在しないこと自体が、「囲い込み」であり、施策の怠慢(ネグレクト)を物語っていると指摘する[9]。米軍の占領下で、沖縄で児童福祉法が制定されるのは本土に5年も遅れる1953年10月であり、沖縄の占領政策が優先されるなか、子どもの権利は大きく後回しにされてきた。

また浅井は、米軍記録の不在の中、米軍政府の下で『沖縄民政府要覧』に記載された各孤児院の「収容人数」の数と、1945年11月21日から1946年4月3日に「うるま新報」に掲載された孤児院の「身寄を求む」欄の名前の数の違いにも言及している。コザ孤児院で新聞に掲載された名前は412名だが、『要覧』には81名と記載されている。

百名孤児院は1946年『要覧』では24人とされている。うるま新報への掲載記録は書かれてはないが、しかし、1946年から1949年まで軍政府があった知念補給地区で将校のホームメイドを務め、軍政府要人と親しく接する機会の多かった上原栄子は、彼女の自伝に住宅建設予定地から見える百名孤児院の様子を記している[14]

孤児院を見下ろすその丘の上からは、戦場で拾われた二、三百人ほどもいる戦災孤児たちの生活が手にとるように見えます。… コンセットと呼ばれる大きなカマボコ型のトタン屋根の兵舎や、三角屋根が並んだ即製孤児院で、何も知らない裸足の子供たちが、アメリカ から送られたお仕着せの洋服や帽子だけは一人前に着けています。… ふくれたお腹におへそを突き出し、きらきらと光る目に、鼻を垂らして、… — 上原栄子『辻の華・戦後篇(上巻)』

収容人数が多く、コンセットの兵舎に収容できないため、いまだ三角屋根の米軍即製テントを使っている孤児院の当時の様子がうかがわれる。

屋比久の CIC[編集]

知念半島の屋比久には日本軍の情報を収集・翻訳するとともに民間人尋問を行う情報機関、第310敵情報隊分遣隊 CIC (310th Counter Intelligence Corps Detachment) が駐屯し、兵士か民間人か等の厳しい訊問がおこなわれ、日本人兵士・朝鮮人軍夫・防衛隊と民間人とを振り分け、前者は屋嘉捕虜収容所などに送られた[15]。沖縄戦の作戦参謀である八原博通が民間人に扮して摩文仁から脱出した際、米軍の捕虜となり、尋問で高級参謀であることが発覚したのも、屋比久のCICであった[16]

CICには、二、三百名の男が収容されていた。 年齢はまちまちだった。早く検問をと頼んだが相手にされず焦心 のうちに二、三日は過ぎた。七月二十六日ごろと記憶するが、いよいよ審査の順番が来た。 屋比久検問所は、小高い丘の上にあった。予想に反して、審査官は全部 日本人であった。三人ずつ横隊になって、 同時に審査 を受ける仕組になっている。 — 八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫) (Kindle 6825-6829)

知念市[編集]

収容所外での行動範囲は厳しく規制されていた。民間人収容所は、沖縄戦のなかで保護した民間人を管理するための施設であり、沖縄戦を生きのびた住民に衣食住と手当を提供する一方で、「基地建設工事が展開される地域から住民を隔離する役割」を担っており[17]、住民が囲い込まれているあいだに、基地建設のための土地接収を既成事実化した。

知念半島に集められた収容者は、南部の捕虜を収容する知念半島の収容施設から、北部の収容所へ強制移動が始まり、7月11日から8月18日まで、6,330人が北西地域の収容所に送られた。それでも知念半島の人口は膨大なもので、そのため米軍は9月25日に知念市を発足させた。10月に17,914人だった人口は、知念市の統合拡大もあって1946年1月15日の人口調査では42,315人となった[1]

知念半島の西側には米軍基地知念補給地区が作られ、1946年10月から1949年12月まで米国軍政府が移転し、それに付随して4月24日に沖縄民政府も石川市東恩納から佐敷村新里(南城市佐敷新里)の米軍基地新里通信所へ移転したため、「知念市」はその間、米軍統治政治の中心となった。しかし、1949年に軍政府と民政府は那覇に移った後[18]、知念市は再び知念村へと戻る。ペンタゴン・ペーパーズ・スキャンダルで、沖縄のCIA拠点が政治問題化した知念補給地区も 1974年に返還された。

知念半島周辺の米軍基地 現在の状況
68 知念第1サイト 知念第1陸軍補助施設 B表: 陸自知念分屯地
69 知念第2サイト 知念第2陸軍補助施設 B表: 空自知念分屯基地
70 新里通信所 新里通信所 1974年に返還
71 知念補給地区(キャンプ知念) 陸軍混成サーヴィス群地区 1974年に返還

関連項目[編集]

参考文献

  • 浅井春夫『沖縄戦と孤児院 戦場の子どもたち』吉川弘文館 2016
  • 鳥山淳『沖縄 基地社会の起源と相克 1945-1956』勁草書房 2013年
  • 川平成雄『沖縄 空白の一年―一九四五‐一九四六』吉川弘文館 (2011年)
  • 川満彰・浅井春夫 共編『戦争孤児たちの戦後史1 総論編』吉川弘文館、2020年

脚注[編集]

  1. ^ a b 読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所”. yomitan-sonsi.jp. 2021年3月16日閲覧。
  2. ^ a b 仲本和彦「沖縄戦研究の新たな視座-米軍作戦報告書に読み解く知念半島の戦闘-」(2018年)
  3. ^ a b Hodge, John R. (1945-06-01) (英語). XXIV Corps Action Report (PDF). https://apps.dtic.mil/sti/citations/ADA375697. 
  4. ^ Okinawa Campaign XXIV Corps Action Report, April 1, 1945 – June 30, 1945, PDF p. 96.
  5. ^ Okinawa Campaign XXIV Corps Action Report, April 1, 1945 – June 30, 1945, PDF p. 97.
  6. ^ 具志頭村「空白の沖縄戦」69年目の夏、戦没者の足跡をたどる | 沖縄タイムス+プラス”. www.okinawatimes.co.jp. 2021年3月16日閲覧。
  7. ^ 琉球新報「沖縄戦から73年、置き去りにした少年どこに… 比嘉盛光さん「今も後悔。存命なら謝りたい」」 2018年3月21日 07:00
  8. ^ 沖縄県平和祈念資料館 | 沖縄戦Q&A”. www.peace-museum.pref.okinawa.jp. 2021年3月17日閲覧。
  9. ^ a b 浅井春夫「沖縄戦と孤児院─戦後史のなかの児童福祉の空白を埋める」(2013)
  10. ^ 津波古 ヒサさん|NHK 戦争証言アーカイブス”. NHK戦争証言アーカイブス. 2021年3月18日閲覧。
  11. ^ 沖縄戦は終わっていない” (jp). オピニオンサイト「iRONNA(いろんな)」. 2021年3月18日閲覧。
  12. ^ 稲福 マサさん|NHK 戦争証言アーカイブス”. NHK戦争証言アーカイブス. 2021年3月18日閲覧。
  13. ^ 沖縄戦の「孤児院」、民家に50人詰め込まれた:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2021年3月17日閲覧。
  14. ^ 上原栄子『辻の華・戦後篇(上巻)』時事通信社 (1989) p. 272
  15. ^ 保坂廣志「日本軍の暗号作戦」紫峰出版 (2012) p. 40
  16. ^ 沖縄決戦『沖縄決戦 - 高級参謀の手記』中公文庫 1972年 位置 6825
  17. ^ 鳥山淳『沖縄 基地社会の起源と相克 1945-1956』勁草書房 2013年 13頁
  18. ^ 大城将保『琉球政府―自治権の実験室―』おきなわ文庫 1992年