王玄謨

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王 玄謨(おう げんぼ、太元13年(388年)- 泰始4年2月29日[1]468年4月7日))は、南朝宋軍人政治家は彦徳。本貫太原郡祁県(現在の山西省晋中市祁県)。

経歴[編集]

後漢の司徒王允の従子の王閎[2]の六世の孫にあたる。北地郡太守の王牢の孫。王秀の子として生まれた。幼くして父を失い、族父の王蕤(王玄載王玄邈の父)に養育されて、「この子は気概高亮にして、太尉の彦雲(王淩)の風あり」と評された[2]

劉裕徐州にいたとき、玄謨は召し出されて従事史となった。景平2年(424年)、謝晦荊州刺史となると、玄謨はその下で南蛮行参軍・武寧郡太守となった。元嘉3年(426年)、謝晦が敗死したが、玄謨は主要な部将ではなかったため罪に問われず、原職にもどされた。元嘉年間、長沙王劉義欣の下で鎮軍中兵将軍となり、汝陰郡太守を兼ねた。玄謨は北魏に対する北伐の策をたびたび上奏したが、文帝に聞き入れられなかった。元嘉24年(447年)、興安侯劉義賓の下で輔国司馬・彭城郡太守に任じられた。元嘉25年(448年)、劉義賓が死去すると、玄謨は彭城が水陸の要地であるとして皇子の赴任を求め、文帝は武陵王劉駿を徐州刺史として派遣してきた。

元嘉27年(450年)、文帝が北伐の軍を起こすと、玄謨は寧朔将軍となり、輔国将軍蕭斌の下で先鋒として黄河流域に入った。玄謨が碻磝に向かったところ、北魏の碻磝戍主が敗走したため、次いで滑台を包囲した。北魏の太武帝が100万を号する大軍を率いて滑台の救援にやってきた。衆寡敵せず、玄謨は部下の多くを失って敗走した。蕭斌が敗戦をとがめて玄謨を斬ろうとしたが、沈慶之が諫めたため取りやめた。『仏祖統記』には、この時十句観音経を読んだ功徳で生命が助かったという。江夏王劉義恭が征討都督として碻磝に入ったが、碻磝が守りきれないとみると撤退した。玄謨は魏軍の追撃のため、流れ矢を臂に受けた。元嘉28年(451年)正月、歴城に帰還し、文帝に書面で敗北を報告した。

元嘉30年(453年)、劉劭が文帝を殺害して帝を称すると、玄謨は益州刺史となった。武陵王劉駿が劉劭を討つべく起兵すると、玄謨は劉駿に従って、済南郡太守の垣護之に兵を与えて派遣した。6月、徐州刺史に任じられた。孝建元年(454年)2月、南郡王劉義宣江州刺史臧質が反乱を起こすと、玄謨は仮の輔国将軍の号を受け、豫州刺史に任じられて、柳元景とともに反乱軍を討った。軍を梁山に駐屯させ、岸をはさんで偃月塁を築き、水陸で反乱軍を待った。劉義宣が劉諶之を臧質につけて派遣し、城南に布陣すると、玄謨は老弱の兵を留めて城を守らせ、自らは精鋭を率いて戦い、反乱軍を撃破した。都督前将軍の位を加えられ、曲江県侯に封じられた。しかし中軍司馬の劉沖之に劉義宣との通謀を讒言され、玄謨は垣護之とともに免官された。

孝建2年(455年)6月、再び豫州刺史となった。淮水流域で司馬黒石が夏侯方進を主に立てて反乱を起こすと、玄謨はかれらを討って斬った。8月、青冀二州刺史に転じた。11月、寧蛮校尉・雍州刺史に任じられた。雍州は他所から流れてきた住民が多かったため、玄謨は流民の土断を実行しようとしたが、当時の民衆が戸籍に属することを望まなかったため、断念した。また玄謨は九品以上の租を貧富にかかわらず同一としたため、雍州の領内には怨嗟の声があふれた。玄謨が反乱を計画しているとの噂が民間に流れ、柳元景が玄謨を討つべく兵を発する騒ぎとなった。玄謨は内外を落ち着かせると、孝武帝に顛末を報告し、孝武帝も主書の呉喜公を派遣して玄謨を慰撫した。後に金紫光禄大夫の位を受け、太常を兼ねた。明堂が建てられると、本官のまま起部尚書を兼ね、さらに北選を兼ねた。大明3年(459年)7月、郢州刺史に任じられた。

大明5年(461年)12月、平北将軍・徐州刺史に転じた。ときに北方の地は飢饉に苦しんでいたため、私財から穀物10万斛と牛1000頭を供出して民衆に分配した。大明8年(464年)2月、領軍将軍の号を受けた。閏5月、孝武帝が死去するにあたって、柳元景らとともに遺命を受け、外任の監督を委ねられた。8月、鎮北将軍・青冀二州刺史として出向した。永光元年(465年)8月、領軍将軍として召還された。この頃、大臣の多くが前廃帝に粛清されており、玄謨の子や甥たちは病を称するよう勧めたが、玄謨は聞き入れず、建康に入った。苛酷な刑罰を緩め、誅殺をやめるよう前廃帝にたびたび諫言した。

同年(泰始元年)12月、明帝が即位すると、玄謨は鎮軍将軍の号を加えられた。足の病のため輿に乗って宮城を出入りすることを許された。泰始2年(466年)、明帝即位に対する反乱が各地で起こると、玄謨は水軍を統括して南方の反乱を討った。2月、車騎将軍・江州刺史に任じられた。建安王劉休仁を補佐して赭圻で勝利し、報賞として諸葛亮の筒袖鎧を賜った。9月、左光禄大夫・開府儀同三司となり、護軍将軍を兼ねた。11月、車騎将軍・南豫州刺史に任じられた。泰始3年(467年)5月、また左光禄大夫・開府儀同三司となった。7月、特進・護軍将軍を兼ねた。8月、車騎将軍の号を加えられた。泰始4年2月乙巳(468年4月7日)、死去した。享年は81。は荘公といった。

長男の王深は早逝し、次男の王曇善と三男の王寛と末子の王瞻がいた。王瞻は南朝斉に仕えたが、政争に巻き込まれて殺害された。

脚注[編集]

  1. ^ 『宋書』巻8, 明帝紀 泰始四年二月乙巳条による。
  2. ^ a b 王閎は河東太守・綿竹侯となり、従叔父で司徒の王允が殺害されたため、官職を捨てて北方の新興に住居し、新興・雁門太守になった(『宋書』王玄謨伝)。

伝記資料[編集]

  • 宋書』巻76 列伝第36
  • 南史』巻16 列伝第6
  • 『仏祖統記』